この日は祖母の命日だったのでお墓参りへ。瓦が落ちちゃったので、元私の部屋は雨漏りし放題。ベッドは弟が生まれた時に設計士の父が作ってくれた2段ベッドの上部分。 一段目と二段目とばらして弟の部屋と私の部屋に置いたもの。あらぬとこへ吹っ飛んじゃった墓石。どこに水をかけようかで悩む。無事そうに見えても。 福島の人間は地震に対しては悲しんでいたとしても怒ってはいない。長く住んできた家が、土地が、壊れてもまた直せる。 苦しんでいるのは目に見えないものに対してだ。それは「放射能」なんて一言で言えるものではない。 人間の悪意、善意、思惑、嘘、不安、そういったものが織り交ぜられて混沌としている。私は郡山で生まれて郡山で育った。 生まれつき足が悪くて14歳の時に両足を手術した。 尖足と呼ばれる奇形だった私は、その時期に手術をしなければ子供を産めなくなるかもしれないと診断を受けた。「福島の人間は子供が産めなくな
ミナミボウル、裏。小さな川がトタンの錆で真っ赤に染まっていた。この日郡山は風が強くて、トタンが風に煽られて紙みたいにひらめいていた。ぱきっ、ばきり、音は全然紙のそれとは違ったけれど。正面。3月11日14:46という時間。中には人がいたんだろうな。怖かっただろうな。波打つアスファルト。一見無傷のように見えても、傷跡を持つ建物も多い。「ヤネキケン ヨルナ!! くずれます。」の文字。こんな風にダンボールで危険を訴える貼り紙もあちらこちらに。建物トリアージで「要注意」や「危険」になっていても、中では普通に人が働いているビルもあった。父が震災後、建物倒壊危険度検査にも携わったのだけれど、「危険」の貼り紙を貼られて「俺の家に勝手にそんな事をするな」と怒り出す人も中には居たそう。福島は花の季節。さくら通りと内環状線の交差点。 郡山の高校生は殆どと言って良いほどマスクをしていなかった。 小学生は登下校時は
福島に行ってきました。見てきたこと、聞いてきたこと、感じてきたこと。今の郡山の「リアル」をどうしたらちょっとでも多く伝えられるか、ずっと考えています。 そこは「被災地」でした。 レンガや大谷石の塀は全滅と言っていいほどの確率で崩れていました。このゲームセンターのすごいところはこの状態で営業を再開していたこと。夜になると壁が崩れた穴から、中の光が洩れていました。福島は花の季節。八重桜の向こうは安積黎明高校(旧 安積女子高校)。母校。放射線量の詳細レポートを出していることで注目されているこの高校では、校舎内部が倒壊危険があるため使用できず、プレハブ校舎の建設が進められていました。比較的壊れ方が少なくても、こんな風に冠瓦が落ちている家が多かったです。ちなみに瓦は一部破損でも同じ種類の瓦は手に入らないので、全取替になるのが基本だそうです。中学生の頃、同級生が住んでいたマンション。桃見台小学校。表土
ニューカレドニアに住む友人が、このブログとFlickerの「Please Donate For Japan Earthquake」をFacebookで紹介して募金を呼び掛けてくれた。日本より慎ましい暮らしをしている人に募金を呼びかける意味をしっかり考えようと思う。「無力ではない」なんて強い言葉を書きながら、自分は何ができるかを必死で考えてた。冷静であろうとしながらもがいててんぱって。特にTwitterを読んでる人たちには、みっともない姿をさらし続けたんじゃないかと思う。とてもつらい1週間だったけど、同時に人の優しさや、すごく自分が助けられてること、支えられてることを実感した1週間でもあった。少しずつ安否が判明してきて。小学校の大好きだった担任の先生が避難所に居る事が安否情報でわかったり(入力してくれた人本当にありがとう)、私に電話がかかってきて私が心配されてたりしたこともあった。同時にやっ
このブログのタイトルは「僕等は人生における幾つかの事柄において祈ることしかできない」だけど、今だって私は「祈ることしかできない」なんて思ってない。東北では今も必死の救出作業が続いている。私の実家は福島にある。高校までの18年間を私は福島で過ごした。小中高を共に過ごした同級生も、初恋の人も東北に居る。大阪に居る私へ福島から何通かのメールが届いた。無事を知らせるメール。そして届いて欲しいけれどまだ届かないメールもある。今、インターネットで世界中の人が日本を応援してくれていて。その中に「日本人は強い大丈夫。」という言葉を何度も見る。心強い。そして、私は思う。東北の人間は強いよ。大丈夫。あれだけの雪と寒さに耐えて堪えて生活してきた精神力。それは、あそこで生きていた私がちゃんと知っている。それでも被災した状況で3月の寒さはこたえるだろうし、命にもかかわる。だから救出作業が進むのを祈っている。1人でも
Bessaflex TM + CARL ZEISS JENA FLEKTOGON 35mm/F2.4 + Kodak PORTRA 400vc2回しか日記を書かなかった2月。その間に観た映画は「バーレスク」「ソーシャルネットワーク」「デュー・デート」「GANTZ」「冷たい熱帯魚」そして3月に入って「ヒアアフター」。「冷たい熱帯魚」について書くのが「ぽい」かも、と思いながらヒアアフターを観て思ったこと。絵がとても広くて、それがなんだか不思議だった。ずっと広角で撮ってるような絵。それがある種の俯瞰を感じさせる。個人的には最後まで俯瞰で行って欲しかったのに、最後人物に寄ってしまった感があって微妙。ヒアアフター=来世って、丹波哲郎が浮かんでしまった。スピリチュアル(spirituality)なものを軽く考えてるわけでも、うさんくさいと思ってるわけでもなくて。例えばちょっとしたゲンをかついだり、言霊
骨身を惜しまず勉強する。そして頭でっかちにならぬよう手を動かす。身体を動かす。 当たり前のことを、ちゃんとやってみようと思う。どこかの出世した女の人が「10年先のビジョンがないとダメ」と言っていた。私には10年先なんてわからない。わかっているのは「今日」は明日に続いてるということだけ。欲しいのはきっと「結果」じゃなく、小さな自信のようなもの。たくさんのものを失くしながら生きている。でもだからと言って、でもだからこそ、失くしたものを紙の左側に書いて、得たものを右側に書いて、それを眺めているような生き方はしたくない。したくないんだよ。
1月に入ってから「トロン:レガシー」「キック・アス」「海炭市叙景」と続けて観た。2月から(うまくいけば)あまり身動きのできない日々が始まるので、その前に水分を補給するように映画分を補給。それぞれに面白い映画だったのだけど、「海炭市叙景」について少し。もともと熊切監督の映画は得意ではなくて。「鬼畜大宴会」に友人が出ていたのを皮切りに縁はあるのでなんだかんだと観てはいるのだけど、何故かいつも途中で辛くなってしまう。暫くしても印象には残り続けているし嫌いというのとは違って、うまく言えない苦手感がずっとあった。そして「海炭市叙景」。上映館の第七藝術劇場の雰囲気にも助けられていつもより柔らかい気持ちで観始める事が出来た。ざらついた生々しい色。そのやすりみたいなざらつきは、今回も私の心にアスファルトの上で転んだ時のような擦り傷を感じさせる。でも、嫌ではなかった。私は北海道ほどでは無くても北の、雪が積も
映画「ノルウェイの森」を観た。私は好きだった。美しい絵の中に居る生身の人間。村上春樹の小説は舞台は日本であっても異国のような、人を描いているのにどこか少し現実味が薄い、痛みの遠いような架空感がある。小説の中ではそれが美しいし、遠い痛みを引き寄せるようにして読むから鋭い欠片が胸に刺さる。生身であるということは俗であるということでもある。だから、小説が好きであの世界を求めていた人には「違う」と不満のあるものになっているかもしれない。私はハルキストと言われるほど傾倒はしてないと思うけど、村上春樹は好きで。その上で、小説とは別として、この映画は映画として好きだと思った。(でも、原作と完全に切り離しちゃうと、ワタナベ君の周りの女の人はまるでみんなセックスのことしか考えてないみたいに見えちゃうかもしれない。それは残念。小説のエピソードを映画に全部入れることができないのはわかっているけれど、その人物が何
「みどりのゆび」は植物をわさわさ育てることができる指。「ちゃいろのゆび」は植物をどんなに育てようとしても枯らしちゃう指。 私はちゃいろのゆびを持っている。才能と言ってもいいのかもしれない。ある程度は努力でどうにかなるかもしれないけれど、そういう何かを発している(電化製品がすぐショートしちゃう人がいるように)人っているんだと思う。みどりのゆびの人と、ちゃいろのゆびの人。 植物の声が聴こえてるみたいにわさわさ茂らせることができる指。調べて調べて、気をつけてお水をあげて、肥料もあげて、植え替えもして、それでも植物を枯らしてしまう指。 とても細やかに丁寧に家のことをする友人が「ちゃいろのゆびなの」と言ってバジルすら枯らしたと笑った時にそう思った。岡村さん復帰のナインティナインのANNを聞いて。思いだしたこと。 一番自分が酷かった時のことは笑って話せはまだしないのだけど。ちょっと小康状態だった時に観
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