鎌倉市観光協会の公式サイトです。鎌倉の基本情報、祭り・イベント、グルメやお土産情報、季節の花など鎌倉ならではの旅の楽しみ方やお役立ち情報、旬の情報をお届けします。
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小島剛一様 2013.4.8 付の産経新聞誌上で、鶴岡八幡宮の宮司が、仏ストラスブールで開催された「東西の宗教・文化交流」の催しについて言及しているのを見つけました。 http://www.sankei.com/life/print/130408/lif1304080030-c.html 以下、同記事からの引用です。 「鎌倉幕府を興した源頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮。鶴岡八幡宮宮司で神社本庁常務理事の吉田茂穂さんは、平成9年に宮司に就任して以来、神道の精神、神社が育んできた文化の情報発信を心掛けてきました。仏ストラスブールで開催された「東西の宗教・文化交流」では御神楽を奉奏、英ロンドンでは、流鏑馬(やぶさめ)神事を執行し、いずれも大きな反響を呼んだそうです。欧米、アジアの大学などで数多くの講演活動もこなしており、その都度、神道への関心の高まりを実感。大きな可能性を感じているといいます。 以下、記
トルコ国境に近いシリアの町カタニヤで、ISと戦うシリア語系キリスト教徒の女性民兵組織、「二つの川の間の土地を守る女性防衛部隊」の訓練キャンプに参加するメンバーのオルミアさん(2015年12月1日撮影)。(c)AFP/DELIL SOULEIMAN 【12月19日 AFP】シリア人の女性、バビロニアさん(36)は2人の子どもを残し、美容師としての仕事も投げ打ってある決心をしたことを後悔していない。その決心とは、シリアでイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」と戦うために、キリスト教徒の女性たちが結成している民兵組織に加わることだ。 戦闘服を身にまとい、気性の激しそうなバビロニアさんは、北東部出身の同国の少数派、シリア語系キリスト教徒だ。自分がしていることは、子どもたちに安全な未来をもたらすためだという信念を持っている。 9歳と6歳のまだ幼い子どもたちに会えないのは寂しいというバビロニアさん。
先週の「イスラーム棄教の背景分析」(1)〜(4)は、「ユーリの部屋」へのアクセス数が、突然、普段の3倍ほどに上がったので、予想以上に関心の高い方達が多いのだと思いました。 念のため繰り返しますが、これは私自身の研究ではなく、あくまで概略をご紹介したまでです。また、研究テーマにおいても主たる関心事ではないことを、誤解のないよう、もう一度はっきりさせておきます。 ただ、昨日の冒頭にも書いたように、大正時代に相当する時代に、文書上のムスリム・クリスチャン競合がうねりを見せた時代があったので、その行き着く先の一つの帰結である「改宗」の問題については、ある程度、ムスリムがどのように考えているのかを明らかにしておく必要があると考えたわけです。 マレーシアでは、人々が比較的穏やかなのと、一神教以外の諸宗教が存在しているために明言化されにくいところがあります。そこで、参考資料として、再び「メムリ」(MEM
F爺様 私が歩いたのはサンティアゴ・デ・コンポステラに至る最後の一日の行程のみでした。前半こそ緑の中の美しい道でしたが、町に近づくにつれて、高速道路や幅の広い車道に巡礼路が寸断され、それを迂回するための道では方向感覚が狂い、四国の歩き遍路では一度も迷わなかった私も立ち止まって逡巡するような場面がときどきありました。「歩く」という観点から言えば、やはりギリシャのアトス山にはよい印象があります。車はほとんど通りませんし、紺碧のエーゲ海を遥か下に見下ろしながら険しい山の麓から中腹に点在する修道院を巡る徒歩の旅はやはりギリシャならではのものと思います。小さな庵で少人数で暮らす修道士からいわゆる「お接待」を受けながら、ゆっくりと会話をするのも楽しみの一つでした。 高橋史郎さま >四国の歩き遍路では一度も迷わなかった私も・・・ 遍路道で一度も迷わなかったという話を聞くのは、初めてです。驚きました。遍路
F爺様 信者は、文字どおり事実として完全に信じ切っているのでしょうから、聖書も歴史書だということになるのでしょうね。そうすると、事実だと信じ切っている人の目から見れば、「非信者は事実を知らない無知だ」と言うのも、自然な発想のような気がします。これではどれだけ話し合っても相互理解は無理ですね、きっと。 アニミズムについては、そもそも私はアニミズムとは何かさえよく知らないので軽々には何も言えませんが、ただどうやら欧米人は、アニミズムとは原始的で自分たちの宗教より遅れているという意識で、見下した意識で言っているようなので、それには傲慢さを感じます。確かに理論武装の高度に進んだ宗教(キリスト教など)と、そうでないの(神道?)という違いはあると思いますが、世界中の各宗教に優劣があるとは、私は思えないのです。 IHさん >信者は、文字どおり事実として完全に信じ切っているのでしょうから、聖書も歴史書だと
12月7日、米大統領選で共和党の指名候補争いの首位に立っているドナルド・トランプ氏(写真)は、イスラム教徒の米入国を禁止するよう主張した。アイオワ州で5日撮影(2015年 ロイター/Mark Kauzlarich) [ワシントン 7日 ロイター] - 米大統領選で共和党の指名候補争いの首位に立っているドナルド・トランプ氏は7日、イスラム教徒の米入国を禁止するよう主張した。カリフォルニア州で先週発生した銃乱射事件の犯人はイスラム教徒だった。 トランプ氏は「米当局が問題を分析できるまでの間」イスラム教徒による米国への入国を完全に禁止することを提案。「ジハード(聖戦)のみを信じて、理性を失い、人間の生命を尊重しないような人々による残虐な攻撃に対して、米国を犠牲にすることはできない」と強調した。 トランプ氏が主張するイスラム教徒の入国禁止は移民のみか、それとも学生や観光客なども含むのか、という電子
「AQ」です。「間違いです」という書き方、「補筆」とするべきところを「訂正」としたこと、お書きになっているとおりです。混乱した頭のまま書いたメールでした。申し訳ありません。 コメントに関しては、「そうなりやすいことはかもしれません」は「そうなりやすいかもしれません」と書いたつもりが「ことは」を削除し忘れていました。「キリスト教全体」は「キリスト教の主流諸宗派」とするべきでした。 『「鉤括弧は強調のためだけに使うものだと思い込んでいる人」がこのブログの読者の中に多数いるとは、到底思えません。』―私も同意します。ブログの更新を楽しみにして毎日のように読んでいる読者ならば、文中の鉤括弧の使われ方にも敏感でしょう。私の想像は、検索の結果このブログにたどり着き、あの記事だけを読む人にまで及んでいました。「強調のためだけに使う」と書いたのは、実際にそんな文章を何度も読んだ(読まされた)ことがあるためで
『スンニ派』と『シーア派』何かとよく目にするイスラム教の二大勢力、『スンニ派(或いはスンナ派、スンニー派とも呼ばれる)』と、『シーア派』。 いったいこの2つの派閥はどう違うのだろうか? イスラムの歴史の流れを追いながら、宗派の違いを誰でも分かるように簡単に解説する。
「AQ」です。最初のメールが言葉足らずだったため、書き直したメールを送りましたが、ブログ記事と行き違いになりました。お約束より遅くなってしまいましたが、お勧めいただきましたとおりコメントいたします。 「男神」については、F爺様が非信者の立場で一般信者を外から客観的に観察したことをもとに書かれたことはわかっていました。「お伝えしたいのは・・・は間違い、ということです」は、「教義上では間違い」のつもりでした(リンクは典拠)。「訂正していただきたい」は、「カトリック教会の教義では神は男性である」と誤解されないように訂正していただきたいという意味でした。記事は教皇フランシスコの発言をきっかけに展開しています。教皇は「巷間のカトリック教徒」ではありません。初めのままでは、読む人、読み方によっては教皇も一般信者も皆が「神には性別があり男である」と決めているかのようにとれなくもありませんでした(私にはそ
F爺様 よくわかりました。腑に落ちました。どうもありがとうございました。 回教徒やキリスト教徒から見れば、私のような無信心者は、無知でかわいそうな人ということになりそうですね。 とりあえずお礼のみにて失礼いたします。 またコメントいたします。 IHさん >回教徒やキリスト教徒から見れば、私のような無信心者は、無知でかわいそうな人ということになりそうですね。 その通りです。F爺は、キリスト教圏やイスラーム圏で幾多の人に面と向かって「お前のような無知な奴は・・・」と言われました。そういう人達は、インド諸宗教や佛教、道教、神道などのことを何も知らない自分がそういう言葉を口にするのがおこがましいことだとは全然考えていません。 次のコメントを心待ちにしております。
「AQ」です。 「他の記事についてもコメントを・・・」というお言葉に答えて、人様の語彙力をどうこう言う立場にないものの(苦笑)ご報告いたしますと、「教皇側 」ともいうべきメディアでは同発言を扱った記事で、「カトリック新聞オンライン」(11月18日付)は「冒涜」と、「バチカン放送局」ウェブサイトの日本語ページ(11月16日付)は「冒涜行為」と訳しています。朝日新聞の記者はただ誤訳をしたのか、何かを意図してあえて「侮辱」としたのか?不思議です。
「コーランには本当は何が書かれていたか? 」という問いかけは、そのままの形で魅力的な問いだと言っていいだろう。私は井筒俊彦の翻訳でコーラン(クルアーン)をすべて読んだことがあり、そして聖書についても一応ではあるが全巻通して読み、それなりに理解はしたが、さてでは、コーランには本当は何が書かれていたか? と問われたとき、私は残念ながらアイロニカルな答えしか出すことができない。それは、聖書には本当は何が書かれていたか? という、自分の、おそらく青春をかけたとしてもよい問いかけがもたらした惨めな姿に近いものである。 幸いにしてアイロニーは、ユーモアが一時の気休めであるのと似て、答えではない。だから私は今でも静かにその問いに向き合う。本書『コーランには本当は何が書かれていたか? 』(参照)は、そうした自分の思いに添ってちびちびと、そして対話するように読んでいった。そのように読む書籍でもあった。 当初
この記事の内容の信頼性について検証が求められています。 確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。議論はノートを参照してください。(2009年3月) 宗教上の食のタブーとして知られる豚 食のタブー(しょくのタブー)とは、飲食において宗教、文化上の理由でタブー(禁忌)とされる特定の食材や食べ方である。 特定の食材がタブーとされる理由としては、大別して 宗教上、文化上、法律上食べることが禁止されている 心理的な背徳感から食べることができない 食材と考えられていないから食べない の3種が挙げられる。 世に知られる食慣習やタブーには、すでに形骸化し意味を持たなくなっている場合もある。たとえばインドなどアジアの多くの地域で妊娠中から授乳期にかけて妊婦に非常に多くの食の禁忌が定められ、欧米の栄養学者から問題視されている。しかし、
「隠れ棄教者」という選択肢があるのですね。隠れキリシタンというのもあったなぁと思いましたが、それは既にある宗教宗派に帰依するだけですが、新宗教を作るには、「隠れ」ているわけにはいかないということですね。納得しました。 「好戦的なのは真のイスラムではない」という趣旨の発言を聞くことがあります。その度に、「真のイスラム」とは何のことなのかと考えてしまいます。本来であれば、ハッド刑なんかをそのまま執行するのが「真のイスラム」のはずなので、寛容と平和主義の「真のイスラム」なるものは、厳密にはイスラム新宗教とでもいうべきものではないかと考えました。それで、いっそそうしてもらった方が、外部の者としても交流しやすいという思いがあって、先日のようにコメントした次第です。 先日の記事「イスラームの虚像」に、以下のようにありました。 >「イスラームは平和主義だ」と主張する回教徒は、コーランのうちの殺戮を正当化
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