STAP細胞をめぐる一連の騒動で窮地に立たされている理研だが、じつは日本最高峰の研究機関といわれてきた。前身の財団法人理化学研究所が誕生したのが1917年、創設したのは渋沢栄一だ。第一次世界大戦後の不況で苦境に立たされた理研を立て直したのが、第3代所長の大河内正敏である。 「大河内は所長就任当時42歳で、日本で最初の造兵学者でした。造兵学というのは武器・弾薬の研究をする学問で、理研の任務も兵器製造だったわけです。しかし、兵器を作るには重化学工業を発展させなければならず、そのために自由に研究できる研究機関を育てる決意をするのです」(大河内の評伝を書いた専修大学の齋藤憲教授) 大河内は若手の人材登用を積極的に進め、組織の拡大を図った。当然、人件費もかかるし研究資金も必要になる。そこで、大河内が考えたのが研究成果の商品化だった。 「理研は弁当箱に使われたアルマイト、コピーの元祖ともいえる陽