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紛争・戦争に関するushiwatatのブックマーク (160)

  • JMM | 村上龍電子本製作所

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  • 視点・論点 「"終戦の日"と歴史家の役割」 | 視点・論点 | 解説委員室:NHK

    東京大学教授 加藤陽子 今年も、終戦の日がめぐってきました。68年前のきょう、国民は、政府がポツダム宣言を受諾して降伏したことを、正午のラジオで知らされることになります。真夏の陽射しの中で玉音放送を聞く国民の姿は、この日がお盆の中日にあたっていることもあり、日人にとって、戦後の原風景となりました。 近代史は教育の現場では時間の関係上軽視されがちですが、近い過去であるがゆえの利点もあります。亡くなってしまった人々の世界と、生きている人間の社会との時間的距離が近いのです。私は、歴史家の最も重要な役割の一つは、この、死者と生者とをつなぐ仲介者としての役割にあると考えています。 8月15日は、1982年に政府がおこなった閣議決定により、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」となりました。この問題で言えば、先の大戦の「戦没者」が何を考え、いかに死んでいったのかを問うことは、死者と生者とを媒介すること

  • 「原爆投下から数カ月後の広島」カラー映像(動画)

    広島といえば有名なキノコ雲や徹底的な破壊の画像が付き物だが、アメリカ国立公文書記録管理局が公開した珍しいカラー映像では、米国が広島に原爆を投下してからわずか7カ月後の広島市民の回復力が示されている。 米国国防総省の依頼によって1946年春(3月20日から4月7日)に制作されたこの記録映像には、史上最大のひとつに数えられる壊滅的な攻撃から立ち直る過程における広島の非常に興味深い姿を見ることができる。

    「原爆投下から数カ月後の広島」カラー映像(動画)
  • 「男の子」は高いところばかり見ている(あるいは昔、飛行機乗りだった父へ)‥‥『風立ちぬ』感想 - ohnosakiko’s blog

    ”ほっこり感動系の泣けるイイ映画”ではない。もうやりたい放題。すさまじいエゴの嵐。それを「だって仕方ないでしょ、美しいものが好きなんだもん」でぐいぐい押していく。ワクワクするようなドラマの面白さもない。観ている間中、不快だった(いい意味で)。 飛行機のプロペラ音や地鳴りの音などに充てられた異様な「人の声」に、「ほれ、ぜんぶ人力だぞ。ぜんぶ人が作ってるんだぞ」という監督のドヤ顔が目に浮かぶ。そしてメカのディティールの舐めるようなフェチな描写の官能性。ヘアスタイルといい深窓の令嬢という設定といいクラリスを思わせつつ、積極的で健気でエロいヒロイン*1 。まるで鳥のようになまなましく羽ばたく(紙)飛行機。 作り手の抜き難い”業”、というか監督の”体臭”が凝縮されて隅々にまで濃厚に立ち籠り、窒息寸前。 今さら私などが言うまでもなくこれは「宮崎駿」による「宮崎駿」のための「宮崎駿」自身の映画だ。つまり

    「男の子」は高いところばかり見ている(あるいは昔、飛行機乗りだった父へ)‥‥『風立ちぬ』感想 - ohnosakiko’s blog
  • 満州の慰安所へ薬を配っていた衛生兵の記録 - Transnational History

    2013年5月16日 東京新聞 筆洗 〈黒竜江に近い駐屯地に/遅い春が来たころ/毛虱(けじらみ)駆除の指導で慰安所に出向いた〉〈オンドルにアンペラを敷いた部屋は/独房のように飾り気が無く/洗浄の洗面器とバニシングクリームが/辛(つら)い営みを語っていた〉 ▼陸軍の衛生兵として、旧満州の慰安所で薬を配って歩いた経験を基にした河上政治さん(92)の「慰安婦と兵隊」という詩である。十数年前に読み強く心に残った。続きを紹介したい ▼〈いのちを産む聖なるからだに/ひとときの安らぎを求めた天皇の兵隊は/それから間もなく貨物船に詰め込まれ/家畜のように運ばれ/フィリッピンで飢えて死んだ〉 ▼〈水銀軟膏(なんこう)を手渡して去るぼくの背に/娘の唄(うた)う歌が追いかけてきた 〉。女性の出身地は分からない。薬を届けて帰ろうとした河上さんの耳に、彼女が口ずさんでいる歌が飛び込んできたのだろう ▼〈わたしのここ

    満州の慰安所へ薬を配っていた衛生兵の記録 - Transnational History
  • 日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 - Transnational History

    慰安所の前で巻脚絆(ゲートル)を外し順番を待つ兵士たち 場所:中国、時期:1938年頃 出典:村瀬守保写真集『私の従軍中国戦線 一兵士が写した戦場の記録』(初出:日機関紙出版センター,1987年)新版:2005年 慰安婦は「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、さらには軍や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」等々、慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、そうした人々が無視している資料に、元日軍将兵・軍属が手記や証言のなかで慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。 それら口述資料*1を用いて個々の事例を考察していきます。 以下、 引用文の中略には「……」を入れています。強調、改行は引用者によります。 最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書『慰安婦と戦場の性』のなかで「信頼性が高いと判断してえらんだ」もののひとつです。

    日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 - Transnational History
  • 66周年 - svnseeds’ ghoti!

    今日はいい天気。 あの時も東京は快晴だったんだよね。 半分くらい孫引きになっちゃいますが、今手元にある資料から、いくつか今日に関連するものを引用してみる。一部表記変えてあります。 木戸日記 昭和16年12月8日 十二月八日(月) 晴 【略】 七時十五分出勤。今日は珍しく好晴なり。赤坂見附の坂を上り三宅坂に向う。折柄、太陽の赫々と彼方のビルディングの上に昇るを拝す。思えば愈々今日を期し我国は米英の二大大国を対手として大戦争に入るなり。今暁既に海軍の航空隊は大挙布哇を空襲せるなり。之を知る余は其の成否の程も気づかわれ、思わず太陽を拝し、瞑目祈願す。 七時半、首相と両総長に面会、布哇奇襲大成功の吉報を耳にし、神助の有難さをつくづく感じたり。 十一時四十分より十二時迄、拝謁す。国運を賭しての戦争に入るに当たりても、恐れながら、聖上の御態度は誠に自若として些の御動揺を拝せざりしは真に有難き極なりき。

    66周年 - svnseeds’ ghoti!
  • 「さとうきび畑」の歌は、本土側の「沖縄幻想」だったか?: 極東ブログ

    この話は、『考える生き方』(参照)に書かなかった沖縄の話の一部です。というか、途中で削除しました。理由は、単に書籍に取り込む話題のバランスのためでした。つまり、ページ数との関係で沖縄の話の比重が重すぎるのもどうかなということでした。 「さとうきび畑」の歌の風景 土復帰の前、土側で沖縄を思ってよく歌われた歌に「さとうきび畑」がある。 「ざわわ、ざわわ」というフレーズが繰り替えされ、広大なさとうきび畑に風が抜けていくようすが印象的だ。歌には、海の向こうから戦争がやってきて、鉄の雨に打たれうたれて父は死んでいったというストーリーが盛り込まれている。土では当然ながら、これは沖縄戦を示していると普通に理解される。 そして沖縄でもそう理解され、この歌が歌われていると思っている。 たしかに、現代の沖縄ではそのように理解されている。 歌われていないとは言えない。 だが、私が暮らし始めた1995年頃、

  • 真珠湾攻撃の通告遅れ 大使館の怠慢説に反証 通信記録を九大教授発見 外務省の故意か - 日本経済新聞

    1941年12月8日の日米開戦をめぐる新事実が明らかになった。最後通告の手直しが遅れ、米国に「だまし討ち」と非難された問題で、修正を指示する日から大使館への電報が半日以上を経て発信されていたことを示す傍受記録が米国で見つかった。これまで不明だった発信時刻が判明。「在ワシントン大使館の職務怠慢による遅れ」とする通説に一石を投じそうだ。米メリーランド州にある米国立公文書記録管理局で9月末、記録を

    真珠湾攻撃の通告遅れ 大使館の怠慢説に反証 通信記録を九大教授発見 外務省の故意か - 日本経済新聞
  • 「ふたつの悲しみ」杉山龍丸

    私たちは、第二次世界大戦から二十年たった今、直接被害のないベトナムの戦いを見て、 私たちが失ったもの、その悲しみを新たに考えることが、必要だと思います。 これは、私が経験したことです。 第二次世界大戦が終わり、多くの日の兵士が帰国してくる復員の事務についていた、 ある暑い夏の日の出来事でした。 私たちは、毎日毎日訪ねてくる留守家族の人々に、貴方の息子さんは、御主人は亡くなった、 死んだ、死んだ、死んだと伝える苦しい仕事をしていた。 留守家族の人々の多くは、ほとんどやせおとろえ、ボロに等しい服装が多かった。 そこへ、ずんぐり肥った、立派な服装をした紳士が隣の友人のところへ来た。 隣は、ニューギニア派遣の係りであった。 その人は、 「ニューギニアに行った、私の息子は?」と、名を言って、たずねた。 友人は、帳簿をめくって、 「貴方の息子さんは、ニューギニアのホーランジャヤで戦死されておられます

  • 「なぜ、貧困層、社会的弱者ほど国家の戦争に熱狂するか」から始まる会話。

    関連まとめ: お菓子っ子さん @sweets_street による「社会に必要とされない人々の自尊心の問題」 http://togetter.com/li/380845 関係するかもしれないまとめ: 旧陸軍の「社会民主主義」プロローグ 続きを読む

    「なぜ、貧困層、社会的弱者ほど国家の戦争に熱狂するか」から始まる会話。
  • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1112.html

  • リアリズムと防衛を学ぶ » 「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例

    は長らく平和を謳歌してきました。そんな中で防衛体制の整備には「戦争なんか起こるわけがないのに…」という懐疑論が常にともないました。どころか、「危機がもし起ったら」と考えること自体が危険思想である、戦争が好きな軍国主義者だ、という風に非難された時代もありました。 ところが歴史的に見て「戦争なんか起こるわけがない」という見通しが外れたことは多くあります。 「アルゼンチンが戦争なんかするわけない」 いまから30年前の1983年4月、「フォークランド紛争」という戦いが起こりました。アルゼンチンとイギリスとの紛争です。きっかけは、イギリス領フォークランドに対し、アルゼンチンが突然侵攻を開始したことでした。 ですが紛争勃発の直前まで、戦争なんか起こるわけがない、意見が強くありました。それはかなり論理的なものでした。例えば83年4月5日に発売された雑誌ビジネスウィークは、戦争にいたる可能性は低い、と

  • 島をめぐる争い '82 - リアリズムと防衛を学ぶ

    両国が領有権を争っている島へ、一方の市民が不法に上陸しました。 これは、30年前のおはなし。 1982年、南太西洋の島々の領有権をめぐり、イギリスとアルゼンチンが戦争をしました。フォークランド紛争と呼ばれています。 始まりは民間市民の上陸でした。その背景はアルゼンチンの経済が不調で、政権が危うかったこと。そこで、歴史的な経緯から係争中だったフォークランド諸島がクローズアップされました。国民の目をそらすためです。 アルゼンチンの民衆は、政府がやらないなら自分たちが島を取り返すんだと盛り上がります。義勇軍のような気分で、島に不法上陸したり、運動が過熱していきました。 それが政府の選択肢をせばめ、やがて戦争になりました。 その島には名前が2つ 嵐の前の不景気 断たれた退路 あちら側、こちら側 正しさは手段に過ぎない 賽は投げられた 関連記事 その島には名前が2つ その島々には2つの名前があります

    島をめぐる争い '82 - リアリズムと防衛を学ぶ
  • 朝日 竹島提訴―大局に立つ日韓関係を : 朝日新聞デジタル:社説 - finalventの日記

    政府は1965年の日韓協定で解決済みとの立場だが、93年の官房長官談話で旧日軍の関与を認め、謝罪した。民間主導のアジア女性基金を通じ、償い事業も行った。 そうした努力自体は韓国の人たちにも理解してもらいたい。その上で、まだ出来ることがあるのか、両国で考えればいい。 すまん、コーヒー吹いた。「両国で」って、中国様、出てますって。ここは日の朝日新聞ですよ。 残念なのは、日側で歴史認識への疑問を呼び覚ますような言動が繰り返されることだ。 2007年には当時の安倍晋三首相が、当局が無理やり連行する「狭義の強制性」はなかったと主張。米下院が日に謝罪を求める決議を採択するなど、国際社会で強い批判を浴びた。 これねえ。 ⇒衆議院議員辻元清美君提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書 一の1から3までについて お尋ねは、「強制性」の定義に関連するものであるが、慰安婦問題に

    朝日 竹島提訴―大局に立つ日韓関係を : 朝日新聞デジタル:社説 - finalventの日記
  • 1964年の夏、波にさらわれたビーチボールの話 - ohnosakiko’s blog

    海とマリ ― 少女の思い出 それは、わたしがまだ五つぐらいの女の子だったころのことです。 そのころ、わたしのおとうさんは、とても遠いところにある学校の先生をしていました。その学校は、きれいな海のそばにあるので、ある夏の日に、おとうさんは、わたしをその学校のそばの海につれていってくれました。 電車に乗る駅についたとき、おとうさんはわたしをその駅にあるデパートにつれていき、ビニールでできた、水玉もようの大きなマリを買ってくれました。それから長い時間、電車に乗って、おとうさんの学校がある、海のそばのいなかの町で電車をおりました。 私は、海を見るのがはじめてのことでした。広い海、いっぱいの水、こわい波、海はひっきりなしに動いていました。 そこでは、おとうさんの学校の学生さんたちが、水泳の練習をしていました。おとうさんが号令をかけると、学生さんたちは海にはいって泳いだり、海からでて休んだりしました。

    1964年の夏、波にさらわれたビーチボールの話 - ohnosakiko’s blog
  • 近代以前以後の兵士の士気について

    akira@外国にルーツを持つ子どもを支援する人 @akira090802 100人の古代兵士の運命。50人は敵に出会う前に肺炎や下痢で死にます。40人は一人も殺さないうちに背を向けて逃げるところを後ろから斬られて死にます。9人は逃げる敵を背中から斬り殺します。1人だけが手向かう相手と戦い相手を殺します。これが戦争です。 2012-08-02 22:00:50 お菓子っ子 @sweets_street 【RT】近代以前の戦争では戦闘時以外での消耗というのが馬鹿にならなくて、行軍や野営生活で体を壊して病気になる兵もいれば、事故で負傷して動けなくなる兵、従軍するのが嫌になって逃亡する兵などが多くいたので、衛生管理や安全管理、兵のメンタル管理などを怠ると、戦わずして軍隊が崩壊しました 2012-08-02 22:10:09 お菓子っ子 @sweets_street 行軍するだけで病気や事故、脱走

    近代以前以後の兵士の士気について
  • マニラ戦とベイビューホテル事件

    関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第52号、2012年1月 マニラ戦とベイビューホテル事件 林 博史 日軍による集団強かん事件について、調べたものです。地図は省略しました。 2012.4.15記 はじめに マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた日米両軍による市街戦である。この戦闘によって、マニラ市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった。日米両軍の戦闘行為、特に米軍の砲爆撃による被害が大きかったことも指摘されているが、フィリピンにおいてこのマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこなわれた日軍の数多くの残虐行為である。キリスト教の聖職者を含めアメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、ロシアドイツ、イタリアなどの市民、そしてフィリピン市民が組織的意図的に虐殺される事件がマニラ市内の各所で頻発した。男たちだけでなく女

  • なぜ、日本人は「空気」に左右されるのか?日本軍も陥った4つの罠

    1972年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部、京都大学経営管理大学院(修士)卒業。 大学卒業後、貿易商社にてカナダ・オーストラリアの資源輸入業務に従事。その後国内コンサルティング会社に勤務し、2001年に独立。戦略論や企業史を分析し、負ける組織と勝てる組織の違いを追究しながら、失敗の構造から新たなイノベーションのヒントを探ることをライフワークとしている。わかりやすく解説する講演、研修は好評を博しており、顧問先にはオリコン顧客満足度ランキングで1位を獲得した企業や、特定業界での国内シェアNo.1企業など多数。主な著書に『「超」入門 失敗の質』『「超」入門 学問のすすめ』『戦略の教室』『戦略は歴史から学べ』『実践版 孫子の兵法』『実践版 三国志』『最強のリーダー育成書 君主論』『3000年の英知に学ぶリーダーの教科書』などがある。 「超」入門 失敗の質――日軍と現代日に共通する23の組織

    なぜ、日本人は「空気」に左右されるのか?日本軍も陥った4つの罠
  • スーダンと南スーダンの戦争状態で南スーダンPKOをどうするのだろうか: 極東ブログ

    スーダンと南スーダンの状況について、日も関係していることもあり簡単にメモしておきたい。 まず日が関係する部分だが、今日問責決議を受けた田中直紀防衛相が焦点になる。3月14日の予算委員会でゴラン高原および南スーダン国連平和維持活動(PKO)について問われた際、彼は「緊急撤収計画」は未読であると答えた。さらに26日の予算委員会でも「表紙しか見ていない」と発言した(参照)。それで防衛相が務まるものなのか。務まらないと野党が判断したから問責決議を受けたが、民主党は田中直紀防衛相の続投を支持しているし、野田ちゃん首相もそれでいいと思っているらしい。 スーダンと南スーダンが軍事衝突が拡大したら日は南スーダンPKOをどうするのか。この点について3月28日の参院外交防衛委員会で問われた田中防衛相は「内閣で相談し、国連の動きも見て、決断すべきときは決断するということで判断したい」と答えている。そして現