前回のエントリは分かりにくかった。いや分かってたんです。書き始める時は終止符を打つ!!って「!」が二個付くぐらいの勢いだったんですけど最終的に「打・・・ちたい 」になっちゃったわけでこれじゃ打てね〜なっていうのは。 トラバエントリとか色々読んでまた色々考えたので補足しつつあれこれ書いてみます。 ◆http://d.hatena.ne.jp/ululun/20060209/webcommunication0602092 ネットをリアルと定義しないのは、ネットがネット以外の世界と異なる繋がり方-見知らぬ人と好むと好まざるとに関わらず"繋がって"しまうという事実-への忌避感であると私が考えているのに対して、 確かにそこがまさしく違うと思います。現実世界と同じだからリアル、違うからバーチャルという考え方自体がどうなのか、という問題意識というかそれだと議論は混乱するだけなんじゃないかとオレは考えてま
ものごとはいろいろな見方ができるよな、と思う。背景や基礎を替えて見たり、具体化して見たり、抽象化して見たり、一般化して見たり、神聖化して見たり、細分化して見たり、できるからだ。だから、普段はごく普通のなんでもなかったことが、ある見方を採用したときに、急に輝きを増して見えるようになることがあったりもする。ある視座からでは特に『好きだ』と感じられなかったものが、ある視座からでは物凄く『好きだ』と感じられることがある、わけだ。そのさまざまな視座の中に、好きだという言葉を『私はそれを獲得したいと感じているのだ』という宣言に変換できる視座があって、私が頻繁に採用している視座はそういったものなのかもしれないな、とふと思った。好きだと感じたものをなぜ『目指そうと感じるもの』と同一視してしまうのか。好きだとか言いながら『でも目指そうとは思わないけどね』と言えてしまうのはなぜなのか。ということについて以前か
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