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Wikipediaと日本史に関するwerdyのブックマーク (13)

  • 旧淀川 - Wikipedia

    旧淀川(きゅうよどがわ)は、淀川の毛馬水門(毛馬閘門)で南へ分岐する旧・淀川流。 上流から大川(おおかわ)、堂島川(どうじまがわ)、安治川(あじがわ)が旧淀川として一級河川に指定されている。 かつての淀川流であるが、淀川放水路が開削された1907年(明治40年)以降は旧川扱いとなっている。当初「新淀川」「淀川」だった呼び分けは、次第に「淀川」「旧淀川」となったが、旧淀川は上述の区間ごとの名称で呼ばれることが多い。 中之島より上流が大川、または天満川(てんまがわ)[1]、下流が安治川と呼ばれる。中之島では南北両岸に分かれ、北が堂島川、南が土佐堀川と呼ばれる。なお、河川調書では土佐堀川は別河川扱いとなる。 都島区毛馬町で淀川(新淀川)より分岐して南流、川崎橋をくぐると西流に転じ、東からは寝屋川が合流、天神橋の直前で、中之島の北へ堂島川、南へ土佐堀川となって分岐する。 堂島川はかつて大江橋の

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  • 蘇我理右衛門 - Wikipedia

    蘇我 理右衛門(そが りえもん、号は壽濟、1572年(元亀3年) - 1636年7月31日(寛永13年6月29日))は、河内国五條(大坂枚岡)出身の安土桃山時代から江戸時代にかけての銅商。住友財閥の業祖と呼ばれ、家祖と呼ばれる義弟の住友政友とともに、創業者の1人に位置づけられる。 1572年、河内国五條(現在の大阪東大阪市)の蘇我平兵衛の次男に生まれる。 銅精錬・銅細工の修業をし、1590年、京都寺町五条(松原)に「泉屋」として独立。 南蛮人からヒントを教わって粗銅から銀を分離する「南蛮吹き」という精錬技術を完成させ、その後、大坂の同業者仲間にも伝授した。 銅精錬のほか、銅山経営や銅貿易にも携わり、方広寺大仏(京の大仏)と「国家安康」の銘で知られる梵鐘用の銅を納入したとされる。 1636年6月29日に亡くなった。享年65。墓塔は高倉五條の浄土宗浄運院。

  • 三一権実諍論 - Wikipedia

    三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁8年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「三一権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。 「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、声聞乗・縁覚乗

  • 万里小路藤房 - Wikipedia

    万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。大納言・万里小路宣房の一男。官位は正二位・中納言。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では恩賞方頭人や雑訴決断所寄人など要職を担った。だが、突如、世を儚んで出家した。姓の「藤原」により藤原藤房とも言う。江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成と共に日三忠臣の1人に数えられている。 文保2年(1318年)2月後醍醐天皇践祚に際して、蔵人に補任。以後、弁官として累進し、中宮亮・記録所寄人・相模権守などを兼ねる。元亨3年(1323年)1月蔵人頭に補されたが、同年に弟季房も弁官となったため「兄弟弁官例」と称された。同4年(1324年)4月参議に任じられて公卿に列し、正中3年(1326年)春、従三位・権中納言に叙任。嘉暦2年(1327年)7月左兵衛督・検非違使別当を兼ね、元弘元年/元徳3年(

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  • 六角定頼 - Wikipedia

    明応4年(1495年)、六角高頼の次男として誕生。 明応8年(1499年)、京都にある相国寺鹿苑院において景徐周鱗の門人として剃髪、一旦近江に帰国するものの、文亀3年(1503年)までには再び周鱗の下に戻り、文亀4年(1504年)4月に同寺慈照院にて正式に得度、名を光室承亀、号を江月斎と称した[1]。 永正13年(1516年)、兄・氏綱が細川氏との戦いで受けた戦傷が原因で病床に伏し、永正15年(1518年)に早世したため、定頼が還俗して家督を相続することとなった。室町幕府10代将軍・足利義稙の近侍として仕え、細川政賢を破るという武功を挙げている[要出典]。 永正17年(1520年)、細川高国に合力し細川澄元配下の武将である三好之長を破り(等持院の戦い)、両細川の乱を終結に導いた[注釈 1]。後に義稙が高国と対立して出奔すると、12代将軍・足利義晴の擁立に高国と共に貢献し、天文15年(154

  • 山岡景友 - Wikipedia

    山岡 景友(やまおか かげとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶、大名、武将。豊臣秀吉の御伽衆。江戸時代初期の大名で、常陸国古渡藩の初代藩主。後年、再び剃髪して道阿弥と号したため、山岡 道阿弥(やまおか どうあみ)の名でも知られる。 天文9年(1540年)、六角氏家臣の勢多城主山岡景之の四男として誕生した。初名は景宗[1]。甲賀を出自とする一族の出身である[6]。 領内にあった園城寺光浄院[8]の住持となり、号を暹慶(せんけい)とした。室町幕府の奉公衆と親しく、政所代の蜷川親長とも親交があった。 15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てられ、『耶蘇通信』では「将軍の寵臣」との記述がある[2]。 元亀2年(1571年)、三淵藤英と共に大和国の筒井順慶の救援に出陣し、松永久秀と戦った[2]。 元亀3年(1572年)5月8日、義昭により、上山城[9]の守護に補任された[2]。将軍の守護

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  • 穂国造 - Wikipedia

    『古事記』では穂別君(ほのわけのきみ)とあり、『先代旧事紀』「天孫紀」には三川穂国造、「国造紀」には穂国造とある。 氏姓不明。 『豊橋市史』によれば、『古事記』の開化天皇条で朝廷別王(丹波道主王の子[1])が「三川の穂の別の祖ぞ」と書かれているのが穂国造のはじまりとされる[注釈 1]。一説には丹波道主王の子は景行天皇時代に穂国へ入ったともある[1]。また『先代旧事紀』巻十国造紀の穂国造条に、雄略天皇朝に葛城襲津彦4世孫の菟上足尼(うなかみのすくね)を穂国造に任じたとあるため、国造の交替があったとする説がある[1]。 奈良県明日香村石神遺跡から出土し、評制下の7世紀後半と見られ宝飯郡成立に関する最古の史料とされる木簡に、「三川穂評穂里穂ア佐」とあり、意味は「三河(国)穂評(ほのこおり)穂里(ほのさと)の穂部佐(ほべのたすく)」という人名であると解釈されている。「穂の里」という地名の

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  • 河井継之助 - Wikipedia

    河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」[1]とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている[2]。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。は「すが」。 戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。 河井家の概要[編集] 河井家の先祖は、近江膳所藩多氏の家臣だったという説と、蒲原郡河井村出身の地侍という2つの説がある。多氏家臣説では膳所藩主の娘が初代越後長岡藩主・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。そして兄に40石、弟に2

    河井継之助 - Wikipedia
    werdy
    werdy 2019/11/20
    岩村の項には、“河井継之助は、本気で中立論を展開し、山縣有朋か黒田清隆との会談を希望していたが、岩村はこれを一蹴”とある
  • 三津七湊 - Wikipedia

    三津七湊(さんしんしちそう)とは、室町時代末に成立した日最古の海洋法規集である『廻船式目』に、日の十大港湾として記されている三津・七湊の港湾都市の総称[1]。

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  • ヤマト王権 - Wikipedia

    2世紀末〜3世紀に大和地方と吉備などの瀬戸内、あるいは北九州、山陰、東海まで含む地域を超えた有力豪族らが大和盆地東南部、三輪山麓の纒向遺跡に政治連合を形成する。8世紀の律令制確立の過程で「朝廷」としての体裁を整えていった。 ヤマト王権(ヤマトおうけん)は、古墳時代に「ヒコ(彦)」「ワケ(別)」「オホキミ(大王)」などと呼称された首長もしくは豪族連合によって成立した古代日政治および軍事勢力。 大和盆地および河内平野を拠とし、2世紀〜3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、山陰および北九州を含む西日全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼし、原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築いた。 旧来から一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、戦後、歴史学者の中で「大

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  • 赤旗事件 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "赤旗事件" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年3月) この項目では、1908年(明治41年)に東京で発生した社会主義者弾圧事件について説明しています。1920年(大正9年)に京都で発生した社会主義者弾圧事件については「京都赤旗事件」をご覧ください。 赤旗事件(せっきじけん/あかはたじけん[1])とは、1908年(明治41年)6月22日に発生した社会主義者弾圧事件である。別名「錦輝館事件(きんきかんじけん)」「錦輝館赤旗事件(きんきかんせっきじけん)」とも言う。 事件の背景[編集] 社会主義の弾圧から容認へ[編集] 明

  • 出雲国造 - Wikipedia

    出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方)を支配した国造。 その氏族の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いだ。 概要[編集] 祖先[編集] 『先代旧事紀』「国造紀」によれば、第10代崇神天皇の御代、天穂日命の11世孫・宇迦都久怒(うかつくぬ)を国造に定めたとある。 『古事記』によれば、无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・遠江国造も天菩卑命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を同祖とする。 天照大御神(アマテラスオオミカミ) 須佐之男大神(スサノオオオカミ) 天穂日命(アメノホイノミコト) 皇祖天神の勅により天日隅宮の祭主となりしより、自後世々神火を継承し、畢生潔敬を異にする。継承にあたりては一昼夜を出でぬうちに、其の子神魂社に詣で神代霊器を用い神火を継承するを以って国造と為す。 天夷鳥命(アメノヒナトリノミコト)

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  • 平成 - Wikipedia

    国第125代天皇・明仁(現・上皇) 新元号「平成」を発表する当時の内閣官房長官・小渕恵三(竹下改造内閣/1989年1月7日) 2012年(平成24年)に竣工した東京スカイツリー 平成(へいせい)は、日の元号の一つ。 1989年 (平成元年)の100円硬貨 昭和の後、令和の前。大化以降231番目、247個目[注 1]の元号。明仁(第125代天皇)の在位期間である1989年(平成元年)1月8日[注 2]から2019年(平成31年)4月30日まで。「元号法(昭和54年法律第43号)」に基づき定められた最初の元号であり、戦後初めて制定された元号(実質の戦後最初の元号)である。また、歴代で4番目に長く続いた元号である。 項では日史の時代区分上、グレゴリオ暦(西暦)の20世紀から21世紀にわたった平成時代(へいせいじだい)についても記述する。 昭和天皇の大喪の礼・葬場殿の儀(1989年〈平成

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