秀吉は、信長横死のさい多数派工作のため、天正10年6月5日づけで「京より罷り下り候者たしかに申し候、(闕字)上様*1ならび殿様*2いずれも御別儀なく、御切り抜けなされ候、膳所が崎*3へ御退きなされ候」*4と中川清秀にあてて虚偽の情報を意図的に流した*5。「京よりの使者が申したことなので確かだ」というのはみずからの情報源が正規の使者によるものとして正確性を、「近江の膳所に逃れた」とは信長らが実際に逃れうる、京都近くの琵琶湖南岸の地名を挙げることで現実性や「希望」を持たせる効果があったことだろう。一方清秀は、それに一杯食わされたのか、それとも渡りに船とばかりに便乗したのか思惑は様々ありえただろうが詳らかにできない。そのあたりの事情はともかく、秀吉のデマゴーグとしての才能をそこに見出すことはできる。すでに天正11年5月15日柴田勝家を自害に追い込んだ際も、小早川隆景に宛てて戦況を詳細に記した上で