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中間に関するx4090xのブックマーク (2)

  • 慶長3年1月10日上杉景勝宛豊臣秀吉朱印状 奉公人・侍・百姓 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    武家、奉公人と百姓の関係を端的に物語る史料がある。越後から米沢へ転封された上杉景勝宛の、米沢に連れて行くべき者と連れて行ってはならない者を秀吉が景勝に明示した朱印状である。 今度会津江国替ニ付而、①其方家中侍之事者不及申、中間・小者ニ至る迄、奉公人たるもの一人も不残可召連候、②自然不罷越族於在之者、速可被加成敗候、但③当時*1田畠を相拘、年貢令沙汰、検地帳面之百性ニ相究ものハ一切召連間敷候也、 正月十日*2 (朱印) 羽柴越後中納言とのへ*3 (七、5707号) (書き下し文) このたび会津へ国替について、①その方家中・侍のことは申すに及ばず、中間・小者にいたるまで、奉公人たるもの一人も残さず召し連れべく候、②自然罷り越さざる族これあるにおいては、すみやかに成敗を加うらるべく候、ただし③当時田畠を相拘え、年貢沙汰せしめ、検地帳面の百性に相究むる者は一切召し連れまじく候なり、 (大意) この

    慶長3年1月10日上杉景勝宛豊臣秀吉朱印状 奉公人・侍・百姓 - 日本中近世史史料講読で可をとろう
  • 天正14年1月19日加藤嘉明宛(カ)豊臣秀吉定写(1) - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    天正14年1月19日、秀吉は家臣宛に十一ヶ条からなる定書を発した。奉公人や百姓をどう扱うべきか定めた長大な朱印状である。もっとも今のところ原は見つかっておらず、写が5通ほど残されているだけである。しかしいずれもほぼ同文であることから、この文書が発給されたことは間違いないであろう。 第一条に見える奉公人は「侍」や「若党」などの戦闘員、「中間」(チュウゲン)、「小者」、「荒し子」と呼ばれる非戦闘員に分かれるが、いずれも戦闘に必要欠くべからざる重要な人員である*1。これらの軍事要員を確保するため、家臣に念を押したようだ。 ところでタイトルに「加藤嘉明宛(カ)」と入れたが、充所が書かれていないため不適切かもしれない。ただ、文書が近江水口加藤子爵家に伝わったことを強調したいためあえてそうした。 長いが重要なので一条ごと読んでいきたい。 奉公人などにつき定写(文書集の表題) 定 一、諸奉公人、侍事

    天正14年1月19日加藤嘉明宛(カ)豊臣秀吉定写(1) - 日本中近世史史料講読で可をとろう
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