武家、奉公人と百姓の関係を端的に物語る史料がある。越後から会津へ転封された上杉景勝宛の、会津に連れて行くべき者と連れて行ってはならない者を秀吉が景勝に明示した朱印状である。 今度会津江国替ニ付而、①其方家中侍之事者不及申、中間・小者ニ至る迄、奉公人たるもの一人も不残可召連候、②自然不罷越族於在之者、速可被加成敗候、但③当時*1田畠を相拘、年貢令沙汰、検地帳面之百性ニ相究ものハ一切召連間敷候也、 正月十日*2 (朱印) 羽柴越後中納言とのへ*3 (七、5707号) (書き下し文) このたび会津へ国替について、①その方家中・侍のことは申すに及ばず、中間・小者にいたるまで、奉公人たるもの一人も残さず召し連れべく候、②自然罷り越さざる族これあるにおいては、すみやかに成敗を加うらるべく候、ただし③当時田畠を相拘え、年貢沙汰せしめ、検地帳面の百性に相究むる者は一切召し連れまじく候なり、 (大意) この