天正17年11月24日、秀吉はついに北条氏直へ最後通牒を発した。しかも当人のみならず諸大名へも「北条左京大夫とのへ」との充所と朱印を捺した正本を送りつけている。原則として古文書は受け取った者の家に残されるものであるが、正本が各大名家に残されるというのはきわめて珍しい。また天正5年に正三位権大納言となるも同13年に勅勘を蒙り、京都を去って堺に逼塞していた山科言継の日記「言継日記」12月16日条にも「殿下(秀吉)より北条に対して条々仰せのわけ、かくのごとし、去る月廿四日なりと云〻」と伝聞の形で全文が書き写されている。3週間後であるが、長文にもかかわらず本文はもちろん様式まで正確に書き写されていて、写もしくは原本を見て書き写したことは間違いない。かなり広範囲に出回っており、偶然流出したのではなく、秀吉が意図的に広めたとみるべきだろう。つまり、これは北条氏直への最後通牒であると同時に自らを「公儀」
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