この文書の発給者は朱印を捺している家康だろうか、それとも文末に署名している島田重次だろうか。ヒントになるのが伊奈熊蔵が署名している天正17年10月28日付甲斐国八代郡向山(むこうやま)郷の「左近丞」ら12名に充てた七ヶ条定書である。「伊奈熊蔵家次、これを奉る」とあるように発給者は家康で、すなわち主人の意を奉(うけたまわ)って伝える文書、すなわち「奉書」として伊奈熊蔵が自らの名を添えた文書である。これに対し秀吉朱印状のように奉者を介さない文書様式を「直状」(じきじょう)と呼ぶ。熊蔵は226号文書以下では郷村名とともに数名から十数名程度の百姓の名を挙げ、「とのへ」や「殿」といった敬称までつけている。島田重次が「奉之」を省き、郷村名のみを記したのとは対照的である。にもかかわらず本文は統一されており、家康の統一的な領国支配基準を定めようとする姿勢と、それぞれの地域の奉行に委ねる分業体制の両立を図ろ