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真田昌幸と名胡桃城に関するx4090xのブックマーク (1)

  • 天正17年11月21日真田昌幸宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    小西行長や加藤清正に肥後天草の武装蜂起に対して指示を出した同日、東国の真田氏にも国境相論に関する文書を発している。秀吉による「天下統一」事業がそれほど簡単に進まなかったことを示していて興味深い。そのこと自体中世的秩序がいかに在地に深く根ざしていたかを物語っている。 其方相抱*1なくるみの城*2へ、今度北条*3境目者共令手遣*4、物主*5討果、彼用害*6北条方江法*7之旨候、①此比*8氏政*9可致出仕由、最前依御請*10申、縦雖有表裏*11、其段不被相構、②先被差越御上使*12、沼田城*13被渡遣、其外知行方以下被相究候処、右動*14無是非次第候、此上北条於出仕申茂、彼なくるミへ取懸討果候者共、於不令成敗者、北条赦免之儀不可在之候、得其意、堺目諸城共、来春迄人数入置、堅固可申付候、自然*15其面人数入候者、小笠原*16・河中島*17江茂申遣候、注進候て召寄彼徒党等、可懸留置候城、③対天下*1

    天正17年11月21日真田昌幸宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう
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