HOMEトンデモ【トンデモ】特攻隊から道徳を教える(大角勝之「特攻隊の遺書から授業で無私を教える」『思春期に「無私」を教える道徳授業』明治図書, 2006)
HOMEトンデモ【トンデモ】特攻隊から道徳を教える(大角勝之「特攻隊の遺書から授業で無私を教える」『思春期に「無私」を教える道徳授業』明治図書, 2006)
攻撃の成功がそのまま死につながる「十死零生」という、世界の戦争史の中でも稀な作戦ゆえ、戦後70年を超えても未だ評価の定まらない「特攻」。ある者は、「究極の愚策」と罵り、ある者は、国に殉じた若者たちの美談を讃える。そうなってしまった背景には、生き残った負い目から口を閉ざした元隊員たちの一方で、自己正当化をはかった一部の指揮官たちの存在が影響しているのは間違いない。実際に、この作戦はいかに採用され、いかに実行されたのか。神立氏が集めた数百人の元搭乗員、関係者の証言とデータから、その実像に迫る。 元隊員の間でさえ、特攻への評価に温度差がある 太平洋戦争末期の、日本陸海軍の飛行機、舟艇、戦車などによる体当たり攻撃、いわゆる「特攻」は、「あの戦争」の一つの象徴として、いまなお論考が重ねられ、関連書籍が出版され続けている。 かくいう私も、「特攻生みの親」とされる大西瀧治郎海軍中将の親族、副官、特攻を命
昭和の爆笑王、落語家の初代林家三平さん(1925〜80年)が、陸軍に徴兵されていた第二次世界大戦末期、米軍との本土決戦になった場合、火薬を背負って突撃する「肉弾特攻要員」だったことがわかった。次男の二代目三平さんが参加したBS朝日の番組取材で明らかになった。 初代三平さんは45年3月、19歳で陸軍に徴兵され、10月に復員。翌46年に父・七代目林家正蔵に入門し、落語家の道を歩み始めた。52年には海老名香葉子さんと結婚し、2男2女に恵まれた。二代目三平さんによると、軍隊時代の話は「母にも僕ら子供たちにもほとんど話したことがなく、父の一生の中で唯一、空白の歴史だった」という。 今回、初代三平さんが戦友たちと一緒に民放テレビ番組に出演した時の録音テープが、当時の上官宅で遺品を整理した際に見つかった。これを基に二代目三平さんと番組スタッフがゆかりの地を訪ね、当時を知る関係者から話を聞いた。 取
特攻とは何か。特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点というノンフィクション作家、保阪正康さん(74)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】 ◇ ◇ ある元海軍参謀にインタビューをした際、戦時中の個人日誌を読ませてもらったことがあります。特攻隊についての記述があり、「今日もまた、『海軍のバカヤロー』と叫んで、散華する者あり」と記してありました。部外秘の文字も押されて。この元参謀によると、特攻機は離陸した後はずっと、無線機のスイッチをオンにしているそうなんですよ。だから、基地では特攻隊員の“最後の叫び”を聴くことができた。「お母さーん」とか、女性の名前もあったそうです。「大日本帝国万歳」というのはほとんどなかった。ところが、そうした通信記録は残っていない。故意に燃やしてしまったに違いありません。“軍神”が「海軍のバカヤロー」と叫ぶ。それは当局にとって、隠蔽(いんぺ
1921年、朝鮮咸鏡北道慶興郡慶興面、ソ連国境に近い、炭鉱で知られた朝鮮半島の北東端の地にて生まれた「彼」の実家は、小さな村の地主だった。「彼」の父親は、満州からウラジオストックに移り住み、物々交換で財を成した後、中ソ両国との三角貿易がしやすい慶興郡に移り住んだ経歴を持っている。地元では親日的な人物として知られており、「彼」の兄もまた、植民地期の朝鮮半島における警察官の地位についている。 裕福な環境の下、将来を嘱望されて育った「彼」の人生が大きく変わるのは1939年。中等学校を終えた「彼」が選んだ進学先が、朝鮮半島や内地の大学ではなく、陸軍予科士官学校であったからである。京城帝国大学予科にも同時に合格していた成績優秀な「彼」が、法曹の夢を断念して陸軍予科士官学校に進んだ理由は、父親の強い勧めがあったからだという。ちょうど朝鮮半島では前年1938年から志願兵制度も導入されており、植民地下の朝
やまおり・てつお 米サンフランシスコ生まれ。83歳。東北大文学部印度哲学科卒。国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター所長などを歴任する。2002年和辻 哲郎文化賞受賞=京都市中京区で2015年3月23日、後藤由耶撮影 宗教学者、山折哲雄さんインタビュー 日本人にとって、戦艦大和とはどのような存在なのか。“不沈戦艦”を生み出した天皇主権下の日本を「いびつな時代」という宗教学者の山折哲雄さん(83)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】 戦艦大和とは日本そのものでした。大和という国土を象徴し、大和という民族を象徴していたからです。世界で最大最強の不沈戦艦だった。だからこそ、最初の朝廷が置かれた奈良の古代名が与えられたというわけです。大和という言葉は、日本人そのものの源流につながっている。「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」と、本居宣長は詠みました。大和という言葉
20130917 台風18号、温帯低気圧に 京都や福井など各地で水害が発生 ユーザー名 Yurusan
小泉首相が特攻隊員に強い思い入れをもっていることはよく知られており、それが靖国参拝にこだわった背景であるとも言われている。しかし自衛隊の最高司令官として、(もし戦争が起き、戦況が思わしくなければ)自衛隊員に特攻同然の任務を命令することになるかもしれない立場にあった小泉が、特攻を「命令」した側についてなにかを語ったというはなしは聞いたことがない。「命令じゃなくて志願だから」なんてゴマカシはなしね。 陸軍航空本部に所属していた丸田文雄少佐は、1944年9月におこなわれた特攻に関する会議を次のように回想している*1。 集まるもの二十余名、しばしの沈黙ののち私はひとり猛然と反対した。「どうしても特攻が必要なら、まず陸軍大将から……」と言い終わらぬうちに、売国奴扱い、卑怯者扱いのバリ雑言が数人から一斉に出て、私も反論、会議は何が何だか分からぬうちに散会となった。 この回想を信じるなら、パイロットの命
「小泉と特攻隊員」というエントリへのコメント欄でフナずしさんからご教示いただいた『つらい真実 虚構の特攻隊神話』、近所の書店であっさりと見つかりました。この種のテーマの本は「近代史」コーナーにある場合と「戦記」コーナーにある場合があるのでちょっとややこしいです。 爆弾を投下して無事帰還する度に再出撃させられ、「ついには、地上部隊による暗殺までの危険性が高く」なったためファンが身辺警護にあたったという特攻隊員のエピソードは第四章、「虚像と実態」に登場します。毎回無事帰還し、爆弾を命中させたこともあったのですからこのパイロットの技量はなかなかのものと考えられましょう。にもかかわらず陸軍が彼に「死ね」と言い張ったのは、最初の出撃での戦死を上奏してしまっていたから、です。 このパイロットは無事敗戦まで生き延びました。迫り来るアメリカ軍から司令官以下幕僚たちが逃亡してしまったからです。 第三章「犠牲
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く