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ブックマーク / mojimoji.hatenablog.com (13)

  • 野宿者を公共圏から追い出したい人こそが家を明け渡すべき - モジモジ君のブログ。みたいな。

    HALTANさんの記事の、次の部分にも答えておきます。 それと「公共施設」に野宿者を受け入れろというなら(というか今回もそうとしか読めないわけだけど)、まずはアンタたちが自分の生活圏の中でやってみてくれ、としか言い様がない。一般人はそこまで心も広くないし余裕もないし、あるいは一般人や貧乏人同士が助け合いだか何だか知らないが下手に自分たちで問題を抱え込んでも共倒れになるだけだろう(反貧困活動家までが「溜め」だの余計なことを言うから困るんだが。この機に乗じて自分たちの脱資主義的な労働共同体幻想を成就させようとは薄気味がわりいんだよ!) http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20081030/p2 えーとね、たとえば、公園を念頭におきます。公園はみんなの場所です。僕は、このみんなの場所を、他に行く場所のない野宿者が利用するのを認めます。そして、公園以外の場所で住めるようにち

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    yugui
    yugui 2008/10/31
    まーこの一言だよね。
  • オマワリの主人の自覚が必要 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    「死ねばいいのに - 無産大衆」 ここを普段読んでる人なら知ってるだろうけど、僕は全然アナキストなどではないのであって、どちらかというと秩序大好き人間なのであるが(大概の落書きも大嫌いだし)、にも関わらず、こういうデモの弾圧とか、それをまともに報道しないメディアの話とかになると、非アナキストの有象無象のたわごとなんかより、アナキストの方が全然共感できるってのも悲しい話だよな、とは思う。 とりあえず立ち位置 直後に聞いたところによると、運転手に関しては運転席の窓ガラスを割って、無理やりこじ開けたとのこと。それで、逮捕理由が公務執行妨害だと。なんだ、それは。こっちは来しなてもいい許可申請までしてやってるんだぞ、カス。死ねよ。というか、公妨ってなんだ。とりあえず、さっき警察署に弁護士を派遣した救対の人の話によると逮捕者は四名、上記三名に加えてロイターのジャーナリストも持っていかれたとか。 まぁ

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    yugui
    yugui 2008/07/06
    "絶対人にはなつかない番犬を番犬として飼っておくなら、噛まれないために最大限の緊張感を持ち続けなければならない"; なるほど
  • だから死刑には反対する - モジモジ君のブログ。みたいな。

    光市事件について、遂にと言うべきか、死刑判決が出た。 この事件について、これまで発言したことはないが、もちろん、折に触れて報道に触れる以上、何も考えないではなかった。いくつかのことを整理して述べてみる。 率直に言って、村氏の主張については、首肯することはほとんどなかった。ただ、少なくとも、次のようには思う。第一に、その一つ一つのことの中に仮に批判しうる点があるとすれば、具体的にそれを取り出して、検討した上での指摘しなければならない。第二に、仮にそのように批判ができたとして、どうして彼がこのような主張をしなければならなかったかを、踏まえなければならない。つまり、彼は突然にこのような事件の当事者となり、何の準備もないまま、事件に対する態度表明、その理論的正当化、実際の発言と行動、そうしたことをやらねばならない立場におかれた。ゆえに、仮に彼の主張に批判しうることがあるとしても、まずは、過酷な日

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    yugui
    yugui 2008/04/25
    世界観を肯定するための自己欺瞞の構造について
  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク - モジモジ君の日記。みたいな。

    今ここで手を組めば、この人を助けることができる。そのような決定的な場面においてであるならば、悪魔とだって手を組むかもしれない。ただし、ほとんどの瞬間は、そのようなマンガみたいな決定的瞬間の遥か手前にあって、そのような地味な場面で考えられるべきことは別にある。 倫理が力を持つのが、倫理を語る者が腕力を持っているからであるならば、倫理など不要であり、ただ腕力だけがあればいい。そうではなく、倫理が、倫理であるがゆえの力を持つとすれば、それは何に由来するのか。仮にそんな力があるとすれば、それはそこで語られる倫理の一貫性に由来するはずである。倫理が、その恥じ入らせる力によって力となるためには、一貫性がなければならない。一貫性を欠いた倫理は、既に倫理としての力を欠いており、ただの飾りである。その一貫性を欠いた倫理要求が仮に受け入れられることがあるとしても、それは倫理として受け入れられたのではなく、ただ

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    yugui
    yugui 2008/03/28
    倫理における一貫性要請の理由
  • お金のない人に財やサービスを届けるにはどうしたらいいのか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    Arisanさんとこのコメント欄より。 いま現実にワクチンが存在するのなら、それが安価でもしくは無償で多くの人の手に入るようにすればいいではないですか。 あなたがおこちゃまでないならば理解できるとおもいますが、そんじょそこらの風邪薬とちがって強力なワクチンを開発するにはそれだけ膨大な研究者のマンパワー(開発研究費)を必要とします。開発にせいこうしたらそれらがペイする状態でないとそもそも医療会社やロックフェラー財団はそれらのワクチンの開発すらとりかかれません。ということは、貧しい人たちへワクチンが届くチャンスがそれだけ遠のきます。 http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070901/p1#c1189143571 natamaruさんが言っていることは、半分くらい正しい(というより、経済学的分析に基づいた提言というのは、それが斜に構えた救命ボート的現実主義を抱えている限

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    yugui
    yugui 2008/02/23
  • 「貧乏人は死ね」と言わないリバタリアンならば - モジモジ君のブログ。みたいな。

    昨日の記事へのトラックバックをいただいた。 富の再分配について@fujixeの日記 リバタリアンって面白いな、と思うところは、第一にそのアンバランスさである。すなわち、政府は常に失敗すると想定されている一方で、政府による再分配がないところでの、自発的贈与による分権的再分配が成功するという見積もりを持っていることである(少なくともそちらの可能性の方が高いと見積もっている)。──しばしば福祉国家論者が現実の市場と理想の政府を引き比べて何でも政府の仕事にしたら良いと主張するのに対して、リバタリアンは理想の市場と現実の政府を比べる。正直、どっちもどっちだよな、とか思う*1。──ただまぁ、現実の政府のダメさ加減=政府の失敗を最大限に見積もるならば、それでもどの程度のことは言えるか、ということは考えておいていい。 政府の失敗、つまり政府が徴税で集めたお金を適切に使わない、何か良からぬ事や一部の人々の利

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  • 教育における強制・矯正・共生 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    私たちが学ぶ必要があることは、直接的に自分にとって役に立つこと、必要なことだけではない。私たちの社会は、一つの経済をなしており、その中で、十全に暮らせている者もあれば、そうではない者もある。そして、そうではない者たちが十全に暮らすためには、既存の社会構造を前提にして自身の努力で埋め合わせるか、さもなければ社会構造の方に変わってもらわねばならない。*1 社会構造を変えるとは、私が変えることができるのでもなければ、あなたが変えることができるわけでもない。しかし、あなたと私ならば、変えることができる。そういうものである。あなたと私は、私の生存と生活についての問いを共有し、あなたの生存と生活についての問いを共有しなければならない。あなたの生存と生活が十全なものではないならば、それはあなたと私が共同して解決すべき問いであるし、私の生存と生活が十全なものではない場合にも同様である。 私の生活が十全なも

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    yugui
    yugui 2008/02/23
  • 「勝ち組」からの応答──赤木論文を検討する - モジモジ君のブログ。みたいな。

    正直、これできちんとした応答になっているのか自信はない。ないけれども、素通りもできないので考えたことを書いてみる。赤木智弘(id:ClossOver)「「丸山眞男」をひっぱたきたい」について。 今日、飢えて死ぬ人がいる。今日、凍えて死ぬ人がいる。etc...。多少なりとも手を伸ばし、誰かの役に立つような何かをちょこちょことやってはみても、まだ全然足りない。一人の力はとても小さいから、また他人よりは自分のことの方が大事だから、できることをそれなりにやったとしても、いつでも全然足りない。だから、社会の仕組みそのものを変えようと考える。うまくいくかどうかさえ分からないのだが、しかし、仮にこれがうまくいったとしても、そのうまくいったその日までに死に行く人には間に合わない。明日、何もかもがうまくいくとしても、今日、死に行く人には間に合わない。 左派であるとは、こうした状況を変えようとする、ということ

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    yugui
    yugui 2007/03/25
    "社会運動は、将来の人間たちのための運動である。そのことを、自らの喜びとできる人だけが、運動に意味を認めることができる"
  • 尊厳死言説を懐疑する(2)──医療経済的観点の欠如 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    「死にたいと思う人が死を選ぶ、それのどこが悪いのか」。尊厳死に賛成する人たちの多くが口にすることは、だいたいこんなところだ。しかし、これほど簡単明瞭な話だとも思えないので、賛成の人たちにいつもいろんな質問をするのだが、そうやって聞いて回って感じたことは、賛成派はむしろ考えるべき論点を(知ってか知らずか)*1スキップしているということだ。先日のシンポジウムでも、「なるほど、それなら納得できるね」なんて話にはならなかった。この人たち(=尊厳死協会の人たち)の言うことは(やっぱり)危うく、とてもじゃないが乗れない。 「死にたいと思う人が死を選ぶ」、この物語に付随するのは次のような実感だ。──「あんな風になるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ」。こういうことが、割と簡単に口にされてしまうような世界に僕らは生きている。「あんな風」には、いろんな状況が代入されるだろう。たとえば、人工透析を導入するかど

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    yugui
    yugui 2007/03/16
    ふーむ
  • 野宿者の公園居住は国際法的に容認されている - モジモジ君のブログ。みたいな。

    先日TBを送ってきたkeya1984氏が「住居の強制撤去について」というエントリを立てている。 まず、こと今件に関して言えば、国際人権規約および一般的意見7に抵触するものではなく、今件に先立つ政府回答の枠内に収まるものであろう。なぜなら、こと今回は「公園を占有していた居住施設の撤去」だからである。締結国を見てみたが、たとえばニューヨークのセントラルパークでもいいし、ロンドンのハイドパークでもいいが、公園内でホームレスが居住施設を建てることを認めているだろうか? 私は、これら諸外国でも公園内にホームレスはいるだろうと思うけれど、国内法にせよ国際条約にせよ、一般的に公園内に居住権を認めて住居の建設を許可している例はないと思う。当たり前であろう、公園という土地に対してそのようなことを法的に認めれば、誰だって勝手に占有して自分の土地建物にしてしまうのだから。行き場のない人の、仮の居場所としてどこま

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  • ジェンフリ・バトン? - モジモジ君のブログ。みたいな。

    僕がウィキペディアで見つけた「ジェンダーフリーの実践例等」についても、あんなものはフェミニストは主張していないということが言われていた。それでは、フェミニストは、あそこで語られている事柄には何一つ賛成はしないのだろうか。フェミニストが、あそこに書かれていた事柄すべてに反対するのなら、フェミニストはそんなことを言わないということを僕も信じよう。(フェミニズムの主流派はどこにいるのか - 数学屋のメガネ) ということなので、私見を明らかにしよう。「フェンフリ・バトン」として、みんなの見解を蓄積していってもいいかもね。 あと、これは当然聞いてよいことだと思うので聞くけれども、khideaki氏は、「実践例等」とやらを、全部とんでもない主張だと言うおつもりなのかどうか。というわけで、ジェンフリ・バトンをkhihdekiさんに贈ります。あなたの見解も詳らかにしてみて欲しい。 khideakiさんの引

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  • 愚民化基本法原案の批判+十六条&十七条批判 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    「「教育法」について知るためのメモ/「新教育法案」へのツッコミまとめ。 - 荻上式BLOG」が逐条批判の論理倉庫として提供されているので、僕も祭りに便乗したい。 僕の教育に対する基的な立場とは、「教育は、「いま・ここ」にない世界を構想する領域であるために、今・ここにある国家と根元的に対立しているべきものである」というものだ。 だから、教育に対して、国家が価値を書きこんではならない。これは大前提である。愛国心だけではない。環境保護の精神も、勤労の倫理も、一切、国家は書きこんではならない。ただ一つだけ、「私たちが共に生きる」という目標だけを、憲法に慎ましやかに書いておけばいいのだ。 愛国心がダメなのは、その中身次第で「私たちが共に生きる」可能性を妨げるからである。「私たちが共に生きる」ことを妨げない愛国心だけが認められるし、そうではないなら愛国心も批判されなければならない。伝統に対し

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    yugui
    yugui 2006/04/13
    「教育は、「いま・ここ」にない世界を構想する領域であるために、今・ここにある国家と根元的に対立しているべきものである」
  • 「延命に月100万円もかかるんです」 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    尊厳死・安楽死問題でしばしば口にされる。重度障害者介護の現場なんかでも言われることがあるし、重度知的&身体の重複障害者にして自立生活をしている知人M氏なんかについても、「こんな人が自立生活してて意味あるんか」と言われたりする。関連して思いつきを並べておく。 A 金額ベースではなく実物ベースで考えてみる 「月100万円も」という場合、金額ベースで考えることには意味があるのか。僕が生きていくのに(今、生きているその状況を維持するのに)、「快適な住居、快適な衣類(下着からコートまで)、清潔な水と事、自転車、パソコンetc...*1」とどんどんリストを連ねていくことができる。他方、たとえばALS患者の場合には「人工呼吸器」「介護(24時間二人)」というような項目がリストに追加される。まずは、このレベルで考えた方がいいのじゃないか。つまり、実物ベースで考えた方がいいんじゃないか。 B 実物ベースで

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