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山陽新聞と高知新聞に筆者の勤め先であるオーテピア高知図書館の貸出しが全国一であるかのような誤解を招きかねない記事が載っている。 そもそも、オーテピア高知図書館は、高知県立図書館と高知市立市民図書館本館との合築・共同運営の図書館であり、これを、他の当道府県立の単独の図書館と比較するのは、おかしいのだ。 高知県立図書館と高知市立市民図書館本館の2つが合体しているオーテピア高知図書館の貸出し数は、両者を合わせた数なのだ(とは言っても、合体しているので、数を分けろと言われても大変困る)。 そして、さらに、日本図書館協会の統計の取り方で、市町村立図書館の中央館・本館の貸出しの数字には、分室等サービスポイントと移動図書館の貸出し数も含むことになっている。 もし、同じ基準で岡山県立図書館と岡山市立中央図書館と同サービスポイント、移動図書館の数を合わせたら、350万を越える貸出しになるはずで、到底、高知が
図書館にひきつけて言えば、今、国が進めている政策に対して、図書館に投資しないのは、はっきり誤りだ。 なぜかというと、図書館は自助を促進するところだからだ。 そもそも、行政=公助が自助などを語るのはおかしいと思うが、自助と言ったって、パワーのない人は何もできない。死ぬだけだ。 現代社会でパワーとは何か。金か知恵だ。しかし、国は金を出したくない。ならば、知恵をつけてもらえばいい。知恵をつけるには勉強するよりほかに道はないが、学校の勉強程度で足りるものではない。 だから、図書館でたくさんの読書をしなければ、自助と言えるほどの知恵はつかない。そうでない人は、どこかの勤め人かアルバイトか、しがない生業程度のことしかできない。そして、大半の人(私も含めて)はこれだ。 自助を進めたければ、公共図書館と学校図書館・大学図書館に大量に投資すべきだ。知恵をつけるための投資と、直接、ばらまくだけの金と、本当のと
図書の「装備」と言われるコーティングは私が図書館に入った1985年には、普及していた。自分の記憶では、1970年代後半の高校生のころ、すでに、自分の学校図書館でも行われていた。ただ、この時は、基本的に装備は、目録を作った人間が自分でやっていた。ただ、アルバイトもいて、やりきれない部分はやってもらっていた。この当時のアルバイトは、本当にアルバイトで大学生がやっていたりした。今の非正規化が恐ろしく進行した図書館現場とはまったく異なる。 しかし、公共図書館を非正規化させたり委託させたりする動きは、もうすでにこのころからあり、京都市は財団に委託を行った。また、足立区でも委託が導入されようとしていて、大きな議論になっていた。 入ったばかりの時から、支配体制の図書館いじめは始まっており、どんどんエスカレートし、現在の、まるで植民地支配・帝国主義みたいな図書館行政が出来上がった。 もちろん、何の抵抗もし
自分が図書館で働くようになってから、もう35年も経つんだと、はたと気が付いた。30年を過ぎると、これは、もう一つの歴史だ。 私が図書館に就職したのは1985年。その時は、まだ、コンピュータもなければ、ワープロもなかった。いや、ファクシミリも導入されていなかった。コピー機はあったが、何かあまりきれいに写らないものだったような気がする。 目録はカードに手書き。ペンで書いた。ただ、インクはカートリッジだったと思う。よくある万年筆と同じようなものだ。そして、そのカードをカード専用のコピー機で複製して、書名、著者名、分類の標目をつけ、それぞれの目録ケースにファイルするのだ。元のカードにもやはり書名の標目をつけ、事務室内の目録ケースにファイルした。著者が2人の場合は、2枚コピーし、それぞれ標目をつけた。3人以上だと、最初の1人だけで後は省略だった。私が就職した図書館では、件名目録は作成していなかった。
前の記事についておかしいと思った人もいるかもしれない。 法律で図書館に置かれる専門的職員を司書、司書補と称するなら、司書、司書補以外の専門的職員が置かれるはずないではないかと。 もちろん、そう考えることもできる。ただ、この場合も、では、図書館に、司書、司書補以外の何らかの専門的職員を置いてはいけないという決まりがあるわけではない。ただ、法律どおりだったら、図書館が持っている古文書その他博物館的資料のようなものをもっぱら相手にしていても司書と呼ぶということはあるかもしれない。 私は、図書館に置かれる専門的職員を司書、司書補と呼ぶと書いてあるからと言って、図書館に置かれる「すべての」専門的職員をそう呼ばなければならないというものでもないと思う。 ここらへんをどう解釈すべきなのか、本当のところよくわからない。もし、図書館の専門的職員はすべて司書、司書補と呼ぶということなら、教育委員会が必要と認め
司書の資格は、食えない資格の代名詞みたいになっている。 理由は簡単で、自治体が図書館を設置しているにも関わらず、司書を採用しないからだ。 あるいは、正規職員でない形なら、司書資格が条件となることもあるが、この場合、給料が安い。 図書館に司書を配置することは義務ではないという人がいる。でも、本当は、ほとんど義務に近い。 それを次に説明する。 図書館法では次のように決めている。 (司書及び司書補) 第四条 図書館に置かれる専門的職員を司書及び司書補と称する。 2 司書は、図書館の専門的事務に従事する。 3 司書補は、司書の職務を助ける。 つまり、図書館に司書が置かれるのは、前提となっているのだ。専門的事務のない図書館など考えられない。もし、「図書館としての専門的事務」がないなら、それは「図書館」ではなくて、ただ、本を置いてあるところである。 ところで、公立図書館については、次の規定もある。 (
私の勤めている図書館では、電子書籍サービスを行っていて、その登録は郵送でもよいことになっている。また、登録の要件として、在住・在勤・在学のほかに、リアルな図書館の方のカードを持っていることにしているが、これも、持っていない人は、電子書籍サービスの登録申し込みと同時に郵送で申し込めるようにしている。もちろん、在住・在勤・在学を示す確認書類のコピーは必要だが、かなり敷居を低くしていることは間違いない。これでもいろいろ言う人は、かなりのめんどくさがり屋だろう。 屁理屈を言う人は、切手を買いに郵便局に行かなければならないだとか、コピーをしにスーパーやコンビニに行かなければならないだとか、いろいろ言うだろう。しかし、今、ネットから出せる郵便もあるし、スマホの写真でも結構とれるので、それを合わせて活用すれば、ネットから出すこともできる。毎回しなければならないわけではないので、このくらいしてもらってもい
タイトルのような新聞記事があった。図書館も閉館で書店も営業時間を短縮したりしていることを背景にこのような記事が書かれている。そうではないと言うことを言いたそうでもあるし、不要不急だからと言って、価値がないということではないとか、いろいろ言いたそうな雰囲気が感じられる。 しかし、事実は意外と簡単だ。 今、外出は制限されているが、それは不要不急なものについてだ。必要で今しなければならない外出までダメとは当然、言われない。同じように読書も不要不急な読書もあれば、必要で今しなければならない読書もある。ただし、それは人によって変わる相対的なものだ。 必要で今しなければならない読書がある人にとっては、困った事態だろう。だから、閉館中の図書館で、送料を払えば本を貸したりするサービスも出てきている。ただ、本を書架から拾ってくるのは日常の仕事だから、それほど新たな労力はかからないだろうが、発送のために梱包し
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