タグ

思想とアニメに関するImamuのブックマーク (19)

  • 2015年見ていたアニメ - Close To The Wall

    というわけで年末のまとめ。年一でやると長くなりすぎるので七月時点で半年分をまとめようと思ったけれども、なんだかんだとやはり年末になってしまった。まとめると分量多すぎるねやっぱり。 今年は何を言おうとも「放課後のプレアデス」がすべて。アニメ単独で六記事を書いているのはこのブログとしては異常の域だし、というよりパッケージを買ったTVアニメ作品は十数年ぶり生涯二つ目なので完全に別格。そしてトライガンは途中でやめているので唯一パッケージを揃えた作品。自分でもどうした?って感じだ。 http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/searchdiary?word=%CA%FC%B2%DD%B8%E5%A4%CE%A5%D7%A5%EC%A5%A2%A5%C7%A5%B9 作品については既にかなり書いているので過去記事を当って欲しいけれども、繊細で丁寧に夢としての魔法を描い

    2015年見ていたアニメ - Close To The Wall
    Imamu
    Imamu 2016/01/01
    「「燃え」とやらが信用ならないのは「男の子」の感覚みたいなものを無自覚に賞賛して妙に保守的なものに回帰してんじゃないかって気がするところ」「ブレンディのCMよりヤバいのが庶民サンプル」
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●『境界の彼方』についてもうちょっと。 秋人は、(性的な嗜好として)「メガネ美少女が好き」なのか、「メガネ美少女だから(メガネ美少女の一人として)未来が好き」なのか、あるいはただ(他ならぬ)「未来」が好きなのか。勿論、そのすべてだろうと思う。秋人の未来に対する「感情−関係の仕方」は複数の層に分裂しつつ重なっていて、分裂した層の上を場面ごとに行ったり来たりしている。どの層が表面化しているのかは、その時々によって異なる。秋人が新堂写真館から未来のコスプレ写真を買うのは、それが「メガネ美少女のコスプレ写真(嗜好性)」だからだし、「メガネをかけている未来のコスプレ写真(タイプ/トークン)」だからでもあるし、たんに「未来の写真(固有性)」だからでもある。あるいは、秋人が、「要するにメガネが大好きです」と言う時、「メガネ」が好きだと言っているのか、「メガネ美少女である未来」が好きだといっているのか、た

    ■ - 偽日記@はてなブログ
    Imamu
    Imamu 2013/12/21
    『境界の彼方』「流れ(感情)でも絵(因果関係)でも表せないものが、表されている」「登場人物の感情に「流れ」として没入~流れが断ち切られるのが気に障る」「ツギハギして投げっぱなし~不満を感じるのだろう」
  • 円環と双極性――暁美ほむらの「叛逆」についての試論 - 過ぎ去ろうとしない過去

    ―女は聖母になる。そして同時に魔女にも。 ―カール・シュミット 魔法少女の運命、すなわち罪と罰のエコノミーに対して、純粋なる暴力がふるわれた。罪はまどかによって引き受けられた(annehmen)。それによってあらゆる罪は贖われた。つまり、あらゆる時間の魔法少女は、常にすでに救済されることになったのである――しかし、ほむらは自身のソウル・ジェムを自ら砕き、魔女となる。彼女は救済を拒む。「円環の理」の救済を。 なぜ?我々は今や新たな考察をくわえる必要に迫られている。ほむらの「叛逆」とは何か。そのためには、「叛逆」の対象、「円環の理」とは何かを明らかにしなければならない。過去と未来を超越する”Jetztzeit”の概念も、時間(Zeit)の概念、すなわち過去と未来の概念を、その語の内に指示している。だが、今や時間は消失した。なんとなれば、時間の両端が結ばれてしまったのである。つまり、「円環」とし

    円環と双極性――暁美ほむらの「叛逆」についての試論 - 過ぎ去ろうとしない過去
    Imamu
    Imamu 2013/12/08
    「「円環の理」=月=母権制の象徴構造」「見滝原の空に輝いていた満月は弦月~月の消滅ではなく、失われた正円の記憶を保持」「楕円たるソウル・ジェムはまた卵の隠喩」「舞踏はディオニソス的~母権的な芸術」
  • 和奏はいかにして母の曲を完成しえたか、あるいは「主体」――アニメ「TARI TARI」における"過去の克服"について - 過ぎ去ろうとしない過去

    少し前に「けいおん!内面論争」というものがあった。契機になったのは「けいおん!」には内面がないのではないか、という主張があるブログにてなされたことである。「けいおん!」には「死にゆく私」や「成熟という困難」という、近代的な主体を形成するためには不可欠な要素がない。かのじょたちは死や不安に襲われることもなく、全員いっしょの大学に進学するので「日常の終わり」もない。それはある種の「ユートピア」にすぎず、そこに住む登場人物に内面を認めることはできない。 アニメ「TARI TARI」のヒロイン、和奏は、上の議論に従えば、まさに「死」というものに強く刻印づけられていたヒロインだったといえるだろう。彼女は、ある後悔を伴うかたちで母、まひるを亡くす。彼女にとって、母の記憶は重荷でしかなかった。であるがゆえに、和奏は母の幻影から逃げようと試みる。母を想起させうる音楽をやめ、遺品もなるべく遠ざけようとするの

    和奏はいかにして母の曲を完成しえたか、あるいは「主体」――アニメ「TARI TARI」における"過去の克服"について - 過ぎ去ろうとしない過去
    Imamu
    Imamu 2012/09/25
    「「卒業(日常の終わり)」にある特別のエポック的意義を見出す歴史主義をやめて、出来事の連関についていまいちど問い直すことが必要なのである」
  • ■ - paint/note

    NHK教育テレビの話続き。「クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!」を初めて見たときはひっくり返った。 http://www.youtube.com/watch?v=y-ZvqdA3yAs 私の配偶者がいつの間にか歌を覚えていて、放っておくと踊りかねない(いっそのことフルで覚えて欲しい)ところを見ると、これはけして「おおきなおともだち」相手のビジネスというわけでは必ずしもなく、それなりに女の子魂に響くものなのだろう。そこに社会における欲望と権力の内面化、とか見る人もいるだろうけど私がここで関心を持つのは表現のレベルだ。この番組の焦点は途中に実写パート(そこで実際に調理が行われる)があることで、印象的なのはその実写パートが限界までアニメに近づいている。ここでははっきりアニメの方がリアリティの上位にあって、実写はいかにアニメに近づくかが課題になっている。似たことは2004年の村上隆によるコスプ

    ■ - paint/note
    Imamu
    Imamu 2009/09/22
    クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!『このモデルは徹底的に「素材」的な存在で~主体が漂白』『実写パートの動きや振り付け、表情はいわば全て「棒読み」』「現実の主体はアニメ的記号に向けて表面をコーディネート」
  • アニメにおける「携帯電話」の表現について - tukinoha’s blog

    アニメにおける基的な技法である「モンタージュ」は、しばしば遠く離れた2人をすぐ近くに存在するかのように描きます。『ガンダム』では1つの画面を2つに分割する技法が頻繁に用いられますが、これもモンタージュと同様に、離れた場所にいる2人が同じ場所で向かい合っているように見せかける技法であると言うことができるでしょう。 一方で、『ef - the latter tale.』のデモに見られるように、他者との対比や画面構成によって「近いようで遠い」距離感を表すことも、アニメは得意としています。 では、全然近くない、遠く離れた2人を描くにはどうすれば良いのでしょうか? 背景を変える、言葉を変える、服装を変える……理屈の上ではわかるのですが、どれも心情に訴えかける効果的な表現とは言いづらいような気がします。つまり、アニメというメディアは「近さ」と「微妙な遠さ」を描くことを得意としながらも、心理的あるいは

    アニメにおける「携帯電話」の表現について - tukinoha’s blog
    Imamu
    Imamu 2009/09/13
    一方が他方の時間を支配する(電話)、あるいは無視する(メール)という「個人的な」性質』//携帯電話の「現前性」『親密さを図るものさしとして「距離」の重要性が薄れ、代わって「同時性」が』
  • 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』論考 - 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

    7月頃、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 」に関する原稿を書いたのですが、諸事情につき刊行されない運びとなったとのことなので、せっかくなのでウェブサイト上にアップしたいと思います。約8,000字です。 ■ 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(以下、『新エヴァ』と略す)の総監督である庵野秀明は、いまから約三年前にあたる二〇〇六年の九月に、同作品を制作するにあたって「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」と題された所信表明を公開している(注1)。そこでは次のように書かれていた。なぜいまエヴァの再映画化を手がけるのか。それは「疲弊しつつある日のアニメーションを、未来へとつなげたいという願い。蔓延する閉塞感を打破したいという願い」を実現するためである。もちろん、いまさら十年以上も前の作品を映画化するのか、という思いはある。事実、「エヴァはもう古い、とも感じ」る。しかし、庵野はこうも断言している。「この

    『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』論考 - 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena
    Imamu
    Imamu 2009/09/08
    「『新エヴァ』という作品自体が、人々の「繋がりの社会性」を満たすための媒介」「コンテンツとコミュニケーションのカップリング」『コミュニケーション・スキルの格差を「無関連化(in-differentiation)」』
  • サバルタン的主体のことなど - 仮想算術の世界

    お久しぶりです。なんだか更新が空いてしまいました。 エンドレスエイトが終わったらしいですね。それはそれとして、ただエンドレスエイトをめぐるこの間のネットの反応というのは、やれ角川と京アニは謝罪しろだの、やれ発案者を更迭しろだの、いくらなんでも幼児的すぎるものが多くて、さすがにどうかと思いました。もちろん、アニメをはじめサブカルチャーというのは、ファンとの距離がきわめて近いところに特色があって、そこから表現的に面白いものが出てきたという歴史もある。しかし、常識的に考えれば「作品をつくる側には固有のロジックがあって、それはときに消費者やファンの欲望と乖離することもある」というのが文化という営みの大原則でしょう。そういう乖離があってはじめて、文化は進化の可能性に開かれるのであって、逆にちょっとした乖離も許せないということになれば、文化は確実に停滞する。その意味で、最近は何かにつけて不寛容な反応

    Imamu
    Imamu 2009/08/12
    「冗長性とそこから来る変異性をちゃんと読み~それまでの概念体系では余剰でしかないもの」『エンドレスエイトのDVDが売れようが売れまいが、そんなことは評論とは何の関係もありません』
  • 居場所の文法 - Freezing Point

    神戸芸術工科大学 「メディア表現学科特別講義A 〜ゲスト講師・新海誠氏」 7月1日(水) 14:40〜 司会: 大塚英志(学メディア表現学科教授) ※一般の方の聴講可となっております 聴講し、いい意味でショックを受けて帰ってきました*1。 以下は、私の個人的なメモです。【※発言の引用等については、主催者や発言者の許可はいただいていません。不正確な描写等に問題がございましたら、リンクやメールにてご指摘いただければ幸いです。適宜対応させていただきます。】 講演が新海誠氏(実作者)、司会が大塚英志氏(批評家・教育者)、コメントに川口典孝氏*2(事業家)、そして客席には、作品づくりに人生を賭けようとしている学生たち。 この配役(?)の緊張感が素晴らしかった。 単なる作品批評でも、単なるビジネス論でも、単なる「将来の夢」でもなく、いわば当事者どうしの真剣さの掛け合い。 ほぼ満員の聴衆がずっと聴き入

    居場所の文法 - Freezing Point
    Imamu
    Imamu 2009/07/06
    『作品への印象批評は、「カテゴリー分類とメタ分析しかしない診断」みたい』『不登校もひきこもりも、非モテも犯罪も、逸脱としては凡庸』『最初から「健康な結果」を目指す自意識は、臨床過程をダメにしてしまう』
  • アニメの物質性 - 仮想算術の世界

    『けいおん!』に近場の風景がぽんぽん出てくることに我慢できなくなって、「聖地巡礼」を敢行してしまいました。実際『けいおん!』の舞台は半分くらい僕の生活圏とかぶっていて、たとえば第1話で律たち3人がだべっていたマクドナルドは、たまにそこで原稿書いたりゲラ直したりする行きつけの店だったりするし、オープニングで階段だけ出てくる京都造形芸術大学はいまの家から自転車で3分くらいのところだったりするし、第2話に出てくる楽器屋(10GIA)は京都三条のJEUGIAがモデルで、高校時代からよくCDを買いに行っていた馴染み深い店でもあるし…というわけで、あんまり冷静に見ることができないんですけど(笑)。まぁ、これまで出てきた(あるいは、これから出てきそうな)風景を類推しながらデジカメでぱしゃぱしゃやってると、なんというか、純粋に楽しいですよね。これは病みつきになりそうです。 そういう個人的な盛り上がりは抜

    Imamu
    Imamu 2009/04/20
    『「同一化」ではなく「並列化」を目指すような想像力、それが聖地巡礼という「シミュレーショニズム」のひとつの本質では』『並列化の欲望というのは、あちら(作品)とこちら(消費者)の距離を根本的に消して』
  • 『ナディア』とMAD的なもの - 仮想算術の世界

    黒瀬さんのブログで、アニメのOPの話が語られています。いま気付きましたが、彼と会ったのは今年の3月のことなので、まだほんの2、3ヶ月くらいしか経っていないわけですが、それから随分と物の見方は変わりました。美術評論も気で読むようになったし、この作品は黒瀬さんならこう読むんじゃないか、という類推もよく働くようになった。僕にとっては、すでに得難い友人です。 ただ、黒瀬さんとしゃべっていると、自分の趣味がとても子どもっぽいということはすごく感じます(笑)。やっぱり彼は美術家らしく学生時代からいいイメージをたくさん見てきたひとで、その体験が自然に思考に流れ込んでいる。逆に『To Loveる』だのMUGENだの言ってる俺ってどんだけ厨房やねん……、と時々我ながら情けなくなる瞬間があります。 とはいえ、たぶんそこにも理由があるはずなんですね。黒瀬さんに便乗して語り始めるなら、僕にとってアニメのOP

    Imamu
    Imamu 2008/05/23
    「MAD的-イデア論的/アニメ的-イデアと質料の相互性(細かい「現象」に異常に気を遣う)」→アイドルヲタの「DD/単推し」。。。いや違うな。アイドルは個々の人間(現象)を追うからイデア論的にはならないのかも
  • まだあの夏を越えられていない/つまりついに受容されなかったおたくの終焉と、失敗し続ける語り手 - N.S.S.BranchOffice

    はてなエコー, EVAオタクから個人主義へ。--Something Orangeついに受容されなかったメッセージ「オタク」から個人へ。価値観の異なる相手ともきっちりと対話しあうことのできる「言葉」を確立するということ。互いにわかりあえないこと、差異があることを前提として受け入れ、その上でなお、理解しあえる何かを模索すること。第一世代の遂に成し遂げられなかったことを、第三世代以降の「ポストオタク」世代は成し遂げるのかもしれないし、やはりあいかわらず「依存」と「排斥」が続くのかもしれない。それはわからない。オタクから個人主義へ。--Something Orangeこういう記事を読むといつも、ああ、あの夏から12年を経てなお、我々(という言い方にはやっぱり語弊があるような気がするんだけど、とりあえずはそういう言い方にしよう)はまだここで足踏みしているのだと思ってしまう。あの夏とは何か、といえば、

    Imamu
    Imamu 2008/05/18
    (エヴァ)(セカイ/決断)「『コードギアス 反逆のルルーシュ』であれ『デスノート』であれ、そこで要請され主人公として行動を起こす「強い私」は、そういう仮面を付けなければ世の中渡っていけない「弱い私」の裏返し」
  • 『ゼロ年代の想像力』に向けたメモ - ピアノ・ファイア

    S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌] 早川書房 2007-05-25 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools 今にわかに話題の、宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読了。こういう波風を立てる人が出てくること自体はいいことですね。 紙幅の関係で書ききれなかった部分かもしれないので、現時点では余計なツッコミにもなりえますが、あえて少しツッコミを入れてみます。 エヴァンゲリオンを「引きこもりモノ」と呼んで「生き残りモノ(=決断主義)」の反対に置くのは不完全な対置で、あの「アスカ復活」を無視していることになると思います。 シンジも最初は、目の前で倒れるレイを見て「逃げちゃダメだ」を連呼し、エヴァに乗り、「男の戰い」を演じ、でも最後はエヴァに乗らなくなる。 ここだけ見ると確かに「引きこもりモノ」ですが、一方アスカは「死ぬのはイヤ」を連呼し(シンジとの対比ですね)、

    Imamu
    Imamu 2007/06/19
    『「批評家が見逃してきた」のは古典の温故と、王道復古(=伝統の継承)』『時代的な「はやりもの」と「話題作」だけを並べて、本来のメジャー作品や「伝統の流れ」を無視するのは、評論家の悪いクセ』
  • 電源を入れてください~都市ノォト~ 涼宮ハルヒの憂鬱第9話に見る,山本寛さんが押井守化することに対する懸念

    涼宮ハルヒ第9話のネット上の感想を見たけれど,否定的な意見が少ないので驚いた。 それどころか 「神回!」 と,はしゃいでいる人たちが結構居てさらに驚いた。 てっきり,「タルイ演出」等の批判の嵐かと思っていたが,そうでもないようだ。 (ちゃんと否定的な意見も存在したが) なぜだろう。現代っ子が条件反射で叩いてしまいそうな作家性を強調した演出がちりばめられていたのに。 (多分,萌えが描かれていたから,だと思う) 山寛さんは,枯山水のBBSのなかで,「アニメーションには体臭(人間性)が足りない」と呟いている。そして彼はアニメーションの中に実写的な表現を取り入れる事に固執していることでも有名である。 そして生まれた涼宮ハルヒの憂 第9話の長回シーン(ほぼ静止画)。 約3分に渡って高校の環境音を聞かされ続けるという,実験的なシーン。 多分,同じ構図を繰り返すことで高校生活の日常性を表現し,そして

    Imamu
    Imamu 2007/05/01
    だからアイドル好きなんだねw『山本寛さんは,枯山水のBBSのなかで,「アニメーションには体臭(人間性)が足りない」と呟いている』
  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    粗大ゴミに車輪を付けて捨てに行く マンションで暮らしていると自宅から粗大ゴミ置き場まで若干の距離があったりします。手で持てるサイズ・重量の粗大ゴミなら手で運べばよいし、それよりも一回り大きいくらいのものならマンション共用設備から台車を借りられる場合があります。 今回、キッチンで 10 年…

    はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
    Imamu
    Imamu 2006/12/10
    <愛>の違い。
  • 『トップをねらえ!1&2合体劇場版』 庵野秀明&鶴巻和哉監督 仲間を守ることと自己犠牲① | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

    『トップをねらえ!1&2合体劇場版』 庵野秀明&鶴巻和哉監督 仲間を守ることと自己犠牲① | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために 評価:★★★★★+α星5つマスターピース (僕的主観:★★★★★+α星5つ) 結論から言おう、トップをねらえ!は、日SF史上の歴史に残る名作です。 デビュー作品だというに、やはり庵野秀明さんは天才だ、ということだろう。とりわけアニメーションという媒体は、すべては監督の才能で決まってしまうのだ。20年近い前の作品だというのに、陳腐さも古さもゼロ、・・・・そして僕は号泣しました。日SF史上で、これほどに、さまざまなSF(センスオブワンダー)の核心部分を、わかりやすく感情移入が深くできる形式で作成されたエンターテイメントは、いまだないと断言できる。 まだ劇場で見ることは可能 (秋葉原で06/12/10までやっている)です。この最高レベルの作品を、

    『トップをねらえ!1&2合体劇場版』 庵野秀明&鶴巻和哉監督 仲間を守ることと自己犠牲① | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
    Imamu
    Imamu 2006/11/27
    「ナショナリズムとパトリオッティズムというのは、とっても分けにくい」「すごく身近なものにしか、シンパシーを感じにくい生き物」「国家や全体は、すぐ個を犠牲にしたがるが、それは許されないんだ!」
  • 七里の鼻の小皺 - 対象をもたない愛(1)――「萌え」・「大切な何か」・『トップをねらえ2!』・『Anisopter』

    対象を失った愛は、涙の国の極限でわれわれに明日を与える。この世では手に入らないものを愛していると自覚しながら、なおこの愛のための抜け道を人生のなかに探すとき、われわれは、結局は一度も与えられなかった世界、輝かしい無償性を受け止めてくれるはずだった世界の可能性を生き始める。「萌える」とは、対象をもたない愛の感情である。その強さは、愛の不可能性を恥じながら、結局は何も諦めきれないだろう自分への矜持を辛うじて持続させようという意思に、遠い理由をもっている。この愛が、自分の心の内に根を降ろしていて、そしてまた、自分自身の他には行き着く先をもちえないだろうという意識のうちに、「萌える」という単語の植物的自発性が慎ましく場所を得ているのだ。「萌える」という言葉については、重要なことはまだほとんど何も言われていない。人々はあまりにもしばしば、この言葉について比喩的に語り、類似性のうちにそれを見失ってきた

    Imamu
    Imamu 2006/11/07
    「対象をもたない不可能な愛が、現実と接する地点」「一見馬鹿げた愛を、生を書き換える力へと組織していく」「アニメとは、倫理的な意味においては、「空を飛ぶ」力学に他ならない」
  • http://d.hatena.ne.jp/pinkfly/20061012

    Imamu
    Imamu 2006/10/14
    面白ひ。R.O.D。シムーン。『女性に対する「特権化/権威化」⇒十字架を背負わせてしまう』
  • 1