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2014年2月3日のブックマーク (2件)

  • 人間は食べる、動物は食う : En-Soph

    【エン-ソフ】は、言論と、様々なオピニオンのためのウェブ・スペースです。「不均質な人的集合による、不均質な集合知の場」を目指して、2012年4月から活動を開始しています。≫詳細 今回は【言葉の常備薬】呉智英/双葉文庫 からのお話。 ぼくは子供のころから、父親に「”う”のは動物、”べる”のは人間」だと教えられてきた。 それでぼく自身は周りがいくら「う」と言っていても、意識して「べる」と言うようにしてきたつもりである。でも、実際のところ、うって表現をする人はあまりにも多い。最近の傾向なのかどうかわからないが、女の子でさえも「ってみて」なんて言っていたりする。 うという表現に接するたび、ぼくは、別にどうってことない反面、どこか気持ちのよくないしこりを感じ続けてきた。 そういうところに、このの『「う」と「べる」』という章が、ひとつの答えを出してくれたようである。 まずは概要から

    人間は食べる、動物は食う : En-Soph
    KaeruHeika
    KaeruHeika 2014/02/03
    同じようなことを感じていたので、得心が行った。
  • なぜ東洋で「法の支配」は失われたのか - 『鑑の近代』

    『「空気」の構造』でも書いたことだが、明治以降の官僚制度をプロイセンの行政法の影響だけで論じる通説には疑問がある。霞ヶ関の行動様式は、ウェーバー的な合理的官僚というより中国の科挙官僚(士大夫)に似ているからだ。 しかし中国には法治国家の伝統がないので、霞ヶ関のゴリゴリの実定法主義はどこから来たのだろう――と疑問に思っていたのだが、書でその謎が解けた。中国にも儒教の徳治主義だけではなく、韓非子などの法家の法治主義の伝統があったのだ。 儒教は官僚の人格を高めて統治する思想で、孔子は法については何も語っていないが、韓非子は皇帝が法と武力で国民を統治すべきだと考えた。しかし秦がわずか14年で滅びたのは、あからさまな暴力による「覇道」で国家を治めたためであり、君子は徳目による「王道」で治めなければならない――と漢の董仲舒は武帝に進言し、漢では儒教が実質的な国教になった。 法家の中でも、初期の管子は

    なぜ東洋で「法の支配」は失われたのか - 『鑑の近代』