戦争の記憶が残った半世紀前の東南アジア。日本企業進出に反感は強く、1974年の田中角栄首相(当時)のインドネシア訪問時には日本車に火が放たれた=ジャカルタ市内で 米中対立が深まる中、対等なパートナーとしての関係をどう生かしていくのか。 日本と東南アジア諸国連合(ASEAN)の首脳会議が東京で開かれた。対話開始から50年の節目を記念するものだ。 経済協力の強化や人的交流の拡大を盛り込んだ共同声明では「共創」という言葉が強調された。岸田文雄首相は「協力のキーワード」と説明したが、問われるのは何を共に創造していくかだ。 土台となったのは、日本の東南アジア外交の指針である「福田ドクトリン」だ。 1977年に当時の福田赳夫首相が、再び軍事大国にならない決意を表明した。信頼される対等なパートナーになるとも約束したが、実態は日本が政府開発援助(ODA)で東南アジアの経済成長を支える構図だった。 だが、こ
![社説:ASEANとの協力 「対等」生かす戦略不可欠 | 毎日新聞](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/10abb196e37fc08081bf35be4720abdec9e8fbd0/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fcdn.mainichi.jp%2Fvol1%2F2023%2F12%2F21%2F20231221ddm005070117000p%2F0c10.jpg%3F1)