わたしがいま注目している狭義のセカイ系諸作品は、世紀末「前」のセカイ系としての「エヴァ」と「エイリアン9」、世紀末「後」のセカイ系としての「サイカノ」「エデン」、このよっつである。このうち「エヴァ」と「サイカノ」がその後のセカイ系の「父」と「母」として選択され、その劣化コピー「ゲド戦記」にてひとまず「狭義のセカイ系」が終了した、と考えている。 宇野常寛氏のセカイ系批判は、どちらかというと<ゼロ年台後半にて><狭義の「セカイ系」的想像力をもつこと>にむけられている。だから、その批判を援用しつつ、ゼロ年代前半のセカイ系の文化史的意義を批判的に検証することは可能だと思う。氏の批判は「惑星開発委員会」にて繰り返されてきたことで、状況論としては的をえているように思う(積極的に反対する立場ではない)。 ただ、かれの批判がストライクにあてはまる仮想敵が、論理のレベルではじつは「ゲド戦記」にとどまると