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ブックマーク / nekoprotocol.hatenadiary.org (7)

  • ネコプロトコル終了のお知らせ -

    ブログ終了においては理由とか気になってしまいがちだけれども、世の中なんでも理由が明らかにされるわけじゃないのです。 それに更新が終わってしまっても、ばら撒かれたミームは回収不能なほどに拡散してしまっているので終了ということにいかほどの意味があるのかはわかりません。でも終わるのです。そういうもんです。 いずれにせよ、ここでリファりリファられコメりコメられスタりスタられた方々にはとても感謝しています。ありがとうございました。 そして、はてなダイアリーを作ったid:jkondoさん。いろいろ遊ばせてもらいましたありがとう。いい感じに成功してください。 あとid:みんな。もうちょっと仲良くしろ。 あとあとid:非モテ。モテろ。 あとあとあとid:長期休筆のやつら。書け。 ではね。さよなら。 2007年創作リスト(創作じゃないのも混じってるね。みなさん読んでくれてありがとう) ごはんの擬人化に意義を

    ネコプロトコル終了のお知らせ -
  • いま感じている悲しいとか楽しいとかキモいという気持ちを否定しない -

    いま目の前で仔が死んでいく様子を見て悲しいと思ったり、ディアボロの大冒険をやって楽しいと感じたり、揚げ足取り議論を見てキモいと思ったりすることがすくなからずある。 特にネガティブな感情の「キモい」あたりは、キモいと思うおれがキモいんだキモいとか思っちゃいけないんだこんな感情消さないといけないんだなんてことになりがちで、ただそうやって感情を押し込めて論理やらなにやらで自己解決に走るとたいていあとがつらい。 そうじゃない。キモいという感情は物でそれは疑っちゃいけないものなのだ。 ただし、そのキモいという感情を生み出した心のルールがどうやって自分に組み込まれたのか、そこは疑ってよいのだと思う。 その「疑うための道具」の一つが創作なのだと思う。とりわけSFはもっとも使い勝手のよい道具だと思う。*1 私がSF(っぽい)創作を書くのが好きな理由はそこです。 *1:SFとか創作とか言わなくても、思考

    いま感じている悲しいとか楽しいとかキモいという気持ちを否定しない -
  • ブログはフィクションかノンフィクションかで評価されるべきなのか。 -

    「で今日の議題は『ブログはフィクションかノンフィクションかで評価されるべきなのか』なのだけれども」 「そんな軸で誰も評価しない。おわり」 「はやっ」 「てか、そういう答えありきくさい構図に持ち込むアンタのやり口がきにいらない」 「いやそれはそれとして。あとでお菓子あげるから」 「うん。じゃあいいよ」 「……。で、冒頭の問いなんだけど。おれの考えではノンフィクションってラベルが嫌いなわけ」 「やっぱりそうきたか。あれでしょ? ノンフィクションってラベルは、読者の判断コストを下げる効果があって有用だけど二つ問題がある……」 「そう。一つは読者の判断コストを下げるっていう親切さはある種読者をバカにしてるっていう点。そしてもう一つはノンフィクション=『ほんとうのこと』は世界にとって大切で有用なんだという前提を無条件に設定してるところ。疑いもせず」 「でた! この、思考停止大嫌いっ子め」 「だいたい

    ブログはフィクションかノンフィクションかで評価されるべきなのか。 -
    TZK
    TZK 2007/09/24
  • おれたちは女性の「高校のころの写真」を見たときのベストな回答を捜し求めている。 -

    女性の「高校のころの写真」というのを見たときにどう回答するのがベストなのかというのをずっと考えている最近のおれなのだけれど、乙女心をこれっぱかしも理解していないおれですら 「かわいいなぁ。あ、や、いまはいまでかわいいよ」 がバッドアンサーであることくらいはわかるのであった。いまはいまで、て。 かといって 「かわいいー。あれかな? おれたちに娘が生まれたらこんなかわいい高校生になるんかなー」 とかだといろいろでしゃばりすぎというか、結婚とか子供とか発言していいか悪いか見極めないと命取りになりかねない。 とこうなると、ベストとまでは行かなくともベターな回答は 「このころからかわいかったんだねー」 あたりが、過去を肯定しつつ目の前の彼女をも褒めていていいのかなと思いつつ、そもそも「高校のころの写真」を見せてくれるような親密な間柄の女性がおれにはいないのでどうでもよかった。世界など滅べばいい。

    おれたちは女性の「高校のころの写真」を見たときのベストな回答を捜し求めている。 -
    TZK
    TZK 2007/09/12
  • ネコプロトコル - 人をうまく不安にさせるエロサイト業者にちょっと感動

  • はてなキモいが指すはてな村って結局、誰と誰と誰と誰なのかもんだい。 -

    はてなキモいが指すはてな村って結局、誰と誰と誰と誰なのか? というのは正直どうでもよくって、そんなことよりおれは「はてなキモい(はてな村キモい)」という《思想》の生存戦略・成長戦略が大好きなのである。 しょうみの話、はてな村って誰なのかわからない。恐らくAさんの指すはてな村とBさんの指すはてな村のIDは違うのだけれど、じゃあそのAND(積)をとったID群がはてな村かっていうとそうじゃない。ANDじゃない。OR(和)をとったID群がはてな村扱いになるんだと思う。 その結果、はてな村の構成員は、はてな村と発言したヒトのぶんだけかってきままに増えてくれるんじゃないかしら。 コミュニティを揶揄するとき、そのコミュニティの構成員を明示しない戦略はすごく頭いいと思う。「はてなキモい」がとった生存戦略はシンプルながらもすごく賢くて強いと思うんだ。「はてなキモい」はまだまだ成長する可能性を秘めている。 お

    はてなキモいが指すはてな村って結局、誰と誰と誰と誰なのかもんだい。 -
  • 文化系なんとかって話。 -

    もし当に文化系なりメガネなりってキャラ付けで人間を分類する文化があるのだとすれば、その文化に属する人らは、理解しがたい/理解が難しい世界を理解するツールとして「キャラ付け」って考え方を使っているんだろうなってことかな。ビジネスシーンでよく言われる「人は見た目で判断する」みたいな考え方(ツール)と似てるのかしら。 そんでそーゆツール越しに扱われると扱われる側は確かに不愉快なんだけど、扱う側、ツール越しに付き合いを見定める側のやり方ってコスト考えると有効なんだよねきっと。ビジネスって免罪符(?)があればそーゆーフィルタリングって、こころにひっかかるものを感じながらも、けっこうほいほいつかってそうだもの。 でも、ネットだとみんな、そーゆービジネスシーンでの出来事みたいな思考停止なことせずに、真剣に問題を考え、互いにガツガツぶつかっていく。ネットに何かを期待してるからこそ真剣なのかもしれないなっ

    文化系なんとかって話。 -
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