私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。 小さな集落でしたが、朝、学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん!元気にいってらっしゃい」と声を掛けてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。 あの日、中学校の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起きました。逃げようとした時には既に遅く、地鳴りのような音とともに津波が一瞬にして私たち家族5人を飲み込みました。 しばらく津波に流された後、私は運良くがれきの山の上に流れ着きました。その時、足元から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見るとくぎや木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、がれきをよけようと頑張りましたが、私1人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母の事を助けたいけれど、ここにいたら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好き
11日で東日本大震災から4年。大槌町吉里吉里の吉里吉里保育園理事長東谷(あずまや)藤右エ門(とうえもん)さん(81)は、津波で犠牲になった妻ケイさん=当時(74)=との思い出を支えに、保育園の再建、運営に奔走してきた。ケイさんは藤右エ門さんを自宅で待ち続けていたとみられ「あのとき逃げろと言っていれば」と今も自責の念は消えない。地域の未来を担う園児たちの笑顔を、愛妻の分も懸命に生きる自分の姿を、ケイさんがいつまでも見守っていてくれるよう願い、11日は護持会長を務める吉祥寺(同町、高橋英悟住職)の巡回法要に同行する。 あの日、ケイさんは近くの生協集配所にいて、大地震後すぐに自宅に戻った。藤右エ門さんは「ここにいろ。俺は園児を避難させに行く」と言い残し保育園に向かった。 園児は既に高台の吉里吉里小に避難していた。無事を確認できたため自宅に戻ろうとすると、黒い波が校門前の坂をせり上がってきた。 自
2011年に26歳で亡くなった堺市の市立中学校の教諭について、地方公務員災害補償基金が公務災害(労災)による死亡と認定したことがわかった。「熱血先生」と慕われ、市教育委員会の教員募集ポスターのモデルにもなった。強い使命感の一方、授業や部活指導などに追われ、体がむしばまれたとみられる。多くの新人教諭らが教壇に立つ春。市教委は再発防止に力を入れる。 亡くなったのは理科教諭だった前田大仁(ひろひと)さん。教諭2年目の11年6月、出勤前に倒れた。死因は心臓の急激な機能低下だった。 10年春に赴任し、1年目は1年生、2年目は2年生を担任し、女子バレー部の顧問も務めていた。 同基金は昨年11月に仕事が原因の過労死と認定した。資料によると、同僚教員の証言などを元に推計した前田さんの死亡直前3カ月の校内での残業時間は月61~71時間だった。国の過労死認定基準(2カ月以上にわたり月平均80時間以上)を下回る
鎮守の森の葉擦れはもう聞こえない。土色が辺り一面むき出しになった平らな大地に、小さな社(やしろ)がぽつんと立つ。 宮城県山元町の海沿いにある八重垣神社は、江戸後期に建てた拝殿、社務所、鳥居などを全て東日本大震災の津波に奪われた。 あの日、宮司の藤波祥子さん(59)は秋田市にいた。戻って神社の惨状を目の当たりにしたのは震災から10日ほど後だった。 何もかも流されたと家族に聞いていたが、その場に立っても不思議と平静だった。「形あるものはいつか失われる。自然の法則を黙って受け入れるしかなかった」 生まれ育ったまちは見る影もない。氏子320軒のうち約90人が犠牲になった。「神も仏もないよね」と言葉を吐いた知人には、何も言えなかった。 仮設の祈〓(きとう)所を構えたが、一帯は新たに住宅を建てられない災害危険区域になった。創建から1200年もの間見守ってきた地域に人はもはや住まない。 「津
釜石市の仙寿院住職、芝崎恵應(えのう)さん(58)は昨年7月、日蓮宗の会合があった青森市で倒れた。2011年3月の東日本大震災から3年余りため込んだストレスに体が悲鳴を上げた。 ビール1杯の酒席で体調を崩し、ホテルのソファに腰を下ろす場面で記憶が途切れた。「1分20秒の心停止があった」と仲間の僧侶から聞かされた。 意識が戻ると、左手脚の動きが鈍かった。脳梗塞を覚悟したが、診断結果は心的外傷後ストレス障害(PTSD)だった。 つらく怖い強烈な体験が心の傷となり、精神面の不安定さが体に異変をもたらす病気だ。20年前の阪神大震災や地下鉄サリン事件で注目されるようになった。 「心の安寧を保てるよう修行しているつもりだった」と芝崎さん。「まさかお坊さんがなるとは」と医師に驚かれた。 小高い丘にある寺は津波を免れた。境内からは破壊される市街地が見え、逃げ遅れた住民がいた。寺には最大で576人
「人間の業ではない。神がなさったのであれば、なぜ」 日本基督教団の韓国出身の牧師、鈴木裵善姫(ペーソンヒ)さん(58)は東日本大震災で壊滅した石巻市の市街地を見て、祈る心の揺らぎを覚えた。 2003年から夫で牧師の淳一さん(53)と石巻山城町教会に仕えていた。日和山の近くにある小さな教会。約40人の教会員と礼拝堂は無事だったが、周辺は数日たっても水が引かなかった。 津波で多くの命が奪われ、人間のはかなさを感じた。天地を創造した神の仕業なのかと疑念がよぎる。震災の9日後、頭の整理がつかずに迎えた最初の礼拝では旧約聖書イザヤ書41章を引用した。 恐れることはない、私はあなたと共にいる神。 たじろぐな、私はあなたの神。 勢いを与えてあなたを助け 私の救いの右の手であなたを支える。 捕虜となって受難の日々を送るイスラエルの民に向けられた言葉だ。「どんな時も神の愛は変わらない」。そう
落ち込む時間が短くなっただけだ。心の穴は今も埋まらない。 「生かされたという気持ちになれない。生き残されたから仕方ないかという感じ」。岩手県大槌町の江岸寺住職、大萱生(おおがゆう)良寛さん(56)はつぶやく。 町の中心部で約450年の歴史を誇る寺は東日本大震災の津波と大火で本堂が焼失した。町内約1600軒の檀家(だんか)のうち約680人が犠牲となった。辺りは焼け野原と化し、寺の釣り鐘は二つに溶けちぎれた。 本堂で避難者を世話していた大萱生さんは津波にのまれ、約40分後に助けられた。住職だった父親の秀明さん=当時(82)=と大学で仏教を学んでいた長男寛海さん=(19)=の行方が知れない。 海沿いに住む三女と生後2カ月の孫娘が無事だったことは、せめてもの救いだった。 妻の智子さん(56)らと避難所生活を始めた数日後、幼なじみの檀家が両親の葬儀を頼みに来た。法衣は津波で失った。ジャージ
会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから 不覚にも読みながらボロボロと大粒の涙が出てきてしまった。 第十章 転生 「離職者再生工場」の可能性――ベビーバギーを作る生産技術者 の章でもう涙で読み進めることが困難になるほどだった。 いろいろな気持ちが交錯してのことだ。 三洋電機は知っての通り一時は2兆円の売上高があった大手総合家電メーカーの一角であったが、経営が傾き、ゴールドマンサックスや三井住友銀行を中心とした金融機関の管理解体を経てパナソニックに吸収され完全に解体されブランドも消滅した。 10万人居た社員はパナソニックで残務を処理する9000人を残し、散り散りバラバラとなりリストラの憂き目を見た。 著者はこの日本の基幹産業の一角を占めた巨艦があっという間に沈み行くさまを当事者たちの証言と共に「あの時何があったのか?」を生々しく記し、またバラバラになった社員達のその後を追いその後の人生を記
東日本大震災の津波で行方不明となった岩手県大槌町臨時職員の娘(当時26歳)から今年1月、父親(59)と母親(51)宛てに1通の手紙が届いた。2004年に訪れた愛知県で、10年後に届くよう娘がしたためたもの。思いがけなく届いた手紙で娘の気持ちを初めて知った父親らは、「しっかり生きねば」と心に誓っている。 娘は03年に高校を卒業し、バスガイドとして京都府のバス会社に就職。その後、大槌町に戻って町の臨時職員になった。震災時は町役場にいて、津波にのまれたとみられる。 自宅は被害を免れ、両親も無事だったが、娘は見つからず、両親は約半年後に痛恨の思いで死亡届を出した。娘に町に戻ってほしいと思っていた父親は悲しみに打ちひしがれ、「いつ死んでもいいと思う日もあった。大槌に呼び戻さなければよかったと悔やんだ」。 仕事を終えて帰宅した父親が、自宅のポストに白い封筒を見つけたのは今年1月12日。「どっかで生きて
「天国の母への伝言」保存を 陸前高田市中央公民館 壁に書き込まれたメッセージ 津波に襲われた中央公民館の内部。右奥に見えるのがメッセージが書かれた壁=陸前高田市 東日本大震災の津波で全壊した岩手県陸前高田市中央公民館の壁に、震災で犠牲になったとみられる母親に宛てた書き込みが見つかった。中央公民館は市の方針で解体されることになっているが、震災の歴史や教訓を未来に伝える遺構として、書き込みが残された壁の保存を求める声も出ている。 書き込みは二つあり、ともに母親へのメッセージ。黒のペンで「大好きなおかあさん、天国で私たち家族を見守ってね」「みんなのことを1番に考えてくれる優しいお母さんだったね」などと記されている。 中央公民館は市指定避難所の市民体育館と棟続きで、約80人が津波で犠牲になった。書き込みには「体育館がとりこわされても この場所の事 絶対忘れないからね」とあり、母親はここで亡くな
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