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ブックマーク / politas.jp (7)

  • 陸前高田に見る、7年の憂鬱(津田大介)|ポリタス 誰がための復興

    大地震、大津波、原発事故という未曾有の複合災害に見舞われた東日大震災から7年の月日が経つ。その間「復興」はどの程度進んだのだろうか。 復興庁は2016年3月までを「集中復興期間」、それ以降を「復興・創生期間」と位置付け、発災以来いくつかの指標にフォーカスして東北被災地の復興の進捗状況と今後のロードマップを定期的に公表してきた。 2018年1月に公開された『東日大震災からの復興に向けた道のりと見通し』によると、震災前と比較した被災者用住居の復興度は、民間住宅等用宅地で80%、災害公営住宅で92%。2018年度末には住まいの確保に関する事業の大枠が完了する見込みとなっているほか、医療施設は97%、学校施設は98%が復旧している。 各種インフラの復旧は2016年までに概ね終了した。2015年3月1日には常磐自動車道が全線開通。復旧作業の遅れていた鉄道もここ数年で作業が進み、2020年春にJR

    陸前高田に見る、7年の憂鬱(津田大介)|ポリタス 誰がための復興
  • あの戦争を生き残った私からあなたへ(飯田進)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ

    あの戦争とは何だったのか。 あれが「防衛のための戦争」であったという見方は根強くある。しかし他方で、あれが「侵略戦争だった」と言われれば、そう思われる歴史的な筋もないことはない。 そのように世の中を二分するような全く異なる見解があるとき、正邪を軽々しく論ずるわけにはいかない。いずれの立場にも考えがあり、部分的に見ればそれぞれの主張には論拠があるからだ。あの戦争の背景にはかなり複雑な要因があった。それは、70年の時を経た今なおそう思う。 一口に言えば、日人はそもそも浮き上がっていた。それは誰も否定できないはずだ。 私もその中の一人である。1941年の末に太平洋戦争が始まり、まだ20歳にも満たなかった感受性の強い時分の私は、いわゆる「興亜青年」のはしくれだった。「日は神国である」という極めて単純な考え方──あまりに神がかり的で、独善的な思想がその背景にあった。 そもそも日の近代とは、欧米

    あの戦争を生き残った私からあなたへ(飯田進)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ
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    archivist_kyoto 2016/01/04
    授業した高校は江津にあるキリスト教真愛高校か
  • 三つの寂しさと向き合う(平田オリザ)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ

    金子光晴の『寂しさの歌』の中に次のような一節があります。 遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。 君達のせゐじゃない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。 寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあって、旗のなびく方へ、 母やをふりすててまで出発したのだ。 かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、 風にそよぐ民くさになって。 誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。 ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まっくらになって、腕白のようによろこびさわいで出ていった。 そしてこの長い詩は、以下のような一節で終わります。 僕、僕がいま、ほんたうに寂しがっている寂しさは、 この零落の方向とは反対に、 ひとりふみとゞまって、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といっしょに歩いてゐるたった一人の意欲も僕のまわりに感じられない

    三つの寂しさと向き合う(平田オリザ)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ
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    archivist_kyoto 2015/08/17
    一瞬とはいえ政権のブレーンをやった人からこいう認識が出ることは佳いこと“もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ”
  • 死して首相は愚痴を残す(谷川俊太郎)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ

    昨日まで私は日国の首相でしたが、今日はもう首相ではありません。と言っても辞任したわけではなくて、暗殺されたんです。で、今日は首相ではなく死人として、もとい詩人として、じゃなかった私人として一言申し上げます。 日清、日露、日支のあと、真珠湾奇襲で始まった戦争に負けてから70年ですか、生きてたら私はこの世に生まれて83年、戦後70年と生後83年、どっちの年月が大事かと言えば、これはもう言うまでもなく自分の生後83年のほうが大事。 で、83年生きた経験で言えば、いくら反対しても戦争はなくせない。首相在任中は私もいろいろきわどい手をうちましたが、あれは戦争したいがための手ではないつもり。新聞テレビや人には言えない内緒事がいっぱいあるんですよ、複雑な意見、いや利害の網の目に捕らえられて四苦八苦。 とは言え首相なんてやってると、つきあう相手がほとんどハイソの人たちです。どうしてもそっちに引っ張られる

    死して首相は愚痴を残す(谷川俊太郎)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ
  • 『つぶしてやる』と言われた側の論理(藤井誠二)|ポリタス 沖縄・辺野古――わたしたちと米軍基地問題

    作家の百田尚樹氏が発した自民党青年局での「沖縄の2紙はつぶれればいい」とか「普天間は田んぼだった」という言葉は無知丸出しで恥知らずの発言だが、絶対に看過してはいけない。というのは、そういった発言に喝采を送ってしまう議員たちを選んでいるのは私たちだからだ。多くの自民党政治家たちは、沖縄のメディアに対して百田氏のように口にはしないだけで、同じような思いを抱いている。 「沖縄の反基地の運動はどうせ共産党だ」 とくに沖縄タイムスと琉球新報の2紙については、とりわけ政治的に偏向しているという恨み節はかねてよりあった。例えば、森喜郎元首相が「沖縄には3の赤い旗がたっている。1共産党。あとの2は地元紙の赤い旗だ」と言ったことは有名な話だ。小池百合子議員は沖縄担当相のときに、「沖縄の新聞はアラブに似ている」と言った。つまり「沖縄版アルジャジーラ」だと言いたいわけだ。こうした「沖縄の新聞は偏向して

    『つぶしてやる』と言われた側の論理(藤井誠二)|ポリタス 沖縄・辺野古――わたしたちと米軍基地問題
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    archivist_kyoto 2015/07/24
    “「沖縄のメディアは偏向している」という、自民党をはじめとする右派的な人々の物言いは、「基地の補助金なくしては沖縄は生きていけないのだ」という空気をつくりだすための喧伝と背中合わせである”
  • 「変われない沖縄」が生まれ変わるために(樋口耕太郎)|ポリタス 沖縄・辺野古――わたしたちと米軍基地問題

    戦後70年の節目となる慰霊の日に、沖縄がどのような社会になっているのか、振り返ってみたいと思う。 Photo by 柴田大輔 クラクションという「地雷」 沖縄を訪れる観光客は、どれだけ道が混雑していても、誰もクラクションを鳴らさないことに気がつくと、「沖縄の人たちはなんて優しいんだ」と感動する。世界中どこの都市でも街の音と言えばクラクション。那覇市は人口あたりの街の騒音が最も低い都市のひとつではないかと思うくらいだ。ところが、沖縄で暮らして何年か経過すると、これはクラクションを「鳴らさない」というよりも、「鳴らせない」状態に近いということを理解しはじめる。 沖縄社会で「加害者」のレッテルを貼られることほど最悪なことはない 車を運転している私が、往来の激しい国道で、違法に右折しようとしている車を見つけてクラクションを鳴らすと、周囲は違法運転している前の車ではなく、一斉に私のことを見る。違法運

    「変われない沖縄」が生まれ変わるために(樋口耕太郎)|ポリタス 沖縄・辺野古――わたしたちと米軍基地問題
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    archivist_kyoto 2015/07/21
    ひさびさにこんなむき出しの地域への偏見を読んだ
  • 辺野古に暮らす私たちの願い(飯田昭弘)|ポリタス 沖縄・辺野古――わたしたちと米軍基地問題

    2014年11月の県知事選挙で、翁長さんが10万票差をつけて勝ちました。割合でいうと、県民の6割が翁長さんを支持し、4割は支持しなかったということになります。翁長さんが勝ったことで、辺野古の地域的に大きな変化がもたらされたかというと、あまり状況は変わっていません。 翁長さんは現政権の「粛々」という言葉に強い抵抗を示しましたけど、私はウチナーンチュであると同時に日人としての自意識も持っています。国防や国益論を前面に打ち出して「辺野古に基地が必要だ」と言われたら、それを全否定することはできないです。とはいえ、基地が来るなら来るで、土足で来られるのは困ります。珊瑚をつぶして海を埋め立てる。騒音被害をまき散らすオスプレイを配備する。誰が見たって、心情からいうとそれは来てほしくありません。私だって音を言えば基地はいらない。 Photo by PIXTA これは沖縄に限ったことではなくて、みなさん

    辺野古に暮らす私たちの願い(飯田昭弘)|ポリタス 沖縄・辺野古――わたしたちと米軍基地問題
    archivist_kyoto
    archivist_kyoto 2015/07/14
    “辺野古の商工会長としての立場から「どうせ基地が来るのなら、若い世代が定着して、末代までここで暮らしていけるようなまちづくりを目指してほしい。そこはちゃんとしてくれよ」”
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