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思想に関するatashi9のブックマーク (11)

  • 喘ぐ大根が未来を変える!──「セクハラ・インターフェース」開発者インタビュー

    テクノロジーとメディア環境に日々革新的な変化が訪れている2013年。中でも特に注目されているのが、デジタルファブリケーションやメイカーズムーブメントという名で形容される、新しいモノづくりの世界だ。ソーシャルメディアの到来が、万人に情報発信を可能にしたように、3Dプリンターやレーザーカッターによって、誰しもがモノづくりに携わることのできる世の中が近く訪れるのではないか。そんな言説が様々なプロジェクトの事例とともに、期待をもって展開されていることをご存知の方も多いだろう。 そんな折に突如メディア上を賑わせているのが、セクハラ・インターフェースだ。この掴みどころのない名を冠されたガジェットの正体は、センサーが取り付けられた大根をさすると、「あ〜ん」と艶っぽい声で喘ぐというもの。一見するとバカバカしいこの作品だが、そのスタイリッシュな見た目と、革新的なコンセプトで、今ネットを中心に注目され始めてい

    喘ぐ大根が未来を変える!──「セクハラ・インターフェース」開発者インタビュー
  • コルタサル『かくも激しく甘きニカラグア』:無邪気な、それゆえに悲しい本 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

    かくも激しく甘きニカラグア (双書・20世紀紀行) 作者: フリオ・コルタサル,田村さと子出版社/メーカー: 晶文社発売日: 1989/04メディア: 単行この商品を含むブログを見る コルタサル『八面体』を読んで、もちろんそのものも素晴らしいんだけれど、ぼくが非常にありがたいと思ったのは寺尾隆吉の解説だった。そこには、ぼくが前から漠然と疑問に思っていたことの答が書かれていたからだ。その疑問とは:なぜコルタサルの後期の作品はイマイチなのか? 『通りすがりの男』とかあまりピンとこなかったし、『海に投げ込まれた瓶』とかは読み通そうという気が起きなくて、でもそのときはこっちの体調のせいかと思ってずーっと棚に寝かしてあったんだよね。最近出た『愛しのグレンダ』もしかり。でも、それは必ずしもこの読者のせいではなかったのかもしれない。 寺尾の答は明解だ。コルタサルがキューバやニカラグアの政治運動に深

  • 『人はなぜ記号に従属するのか』 フェリックス・ガタリ著 評・前田英樹(批評家・立教大教授) : 本よみうり堂 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    フェリックス・ガタリが、書に収められた論考を書いたのは、1979年から1980年の初めにかけてだが、原典の刊行は2011年のことである。 テキストは30年以上眠ったままになっていた。書は、ガタリがほぼ同じ時期に書いた『機械状無意識』やジル・ドゥルーズとの共著『千のプラトー』と重複する部分を多く持っている。そのあたりは、今回の日語訳によってずいぶん読みやすいものになった。それだけでも、一読の価値がある。書で言う「記号」とは、言語、貨幣、その他、人間世界に抽象的な意味作用をもたらし、事物や身体を特殊に変質させるもの一切を指す。 全体は三部から成っている。「第一部 記号的従属と集合的装備」では、社会を編成し、支配する諸記号が、どのような様式によって集団や個人の欲望の隅々に行きわたり、絶え間なく作動する「権力構成体」になっているかが論じられている。「第二部 社会的無意識の語用論的分析」では

    atashi9
    atashi9 2014/06/29
    こういうのがね
  • そろそろやめませんか?「右翼/左翼」「保守/リベラル」って分類は。 - デマこい!

    政治用語が混乱しています。 「おれは保守だ」と言う人がいれば、「あんなのは物の保守ではない」と言う人がいます。「日リベラルは終わった」と言う人がいれば、「あんなのは物のリベラルではない」と言う人がいます。 保守、リベラル、右翼、左翼──。 政治的立場を示すこれらの言葉は、論者それぞれが自分独自の定義で使うようになってしまいました。誤解や混乱を避けるため、うかつに使うのをためらうほどです。一度これらの言葉から離れて、政策そのものをベースに政治的立場を整理する必要があるでしょう。 ◆ あなたは「社会」と「個人」のどちらを大切だと考えますか? 有史以来、これは神話や戯曲に繰り返し選ばれてきたテーマです。人は1人では生きていけません。生存には「社会」が必須です。しかし社会の目的が、個人の目的と一致するとは限りません。社会の繁栄のために、個人の自由はどこまで犠牲にできるのか。これが政治的立場

    そろそろやめませんか?「右翼/左翼」「保守/リベラル」って分類は。 - デマこい!
  • いま求められているのは、リベラルの再構築だ。

    いま求められているのは、リベラルの再構築だ。 2014.02.02 先日もTwitterで書いたのだが、いまの日は、「専業主婦が家庭で育児するのが日の伝統的家族観」というような現実の歴史と反する勝手な史観を振り回すオレオレ保守と、反テクノロジー・反経済成長を言い募る懐古主義的な和式リベラルという極端な二つの党派が前景化しているという、非常な奇妙な状況になってしまっている。 わたしはこの両極端ではなく、その間にいる多くの中間領域の人たちが重要だと考えているし、この人たちこそが次世代の日を背負う社会的中心層になるのは間違いないとも思っている。より具体的に言えば、経済成長を是とし、そのためのテクノロジーの進化も受容し、そのうえで分配政策を構築しなおして機会平等をこれからも実現していこうというような政治思想だ。政府に何でも頼るのではなく、自分たちであらたなコミュニティのあり方を模索し、若者を

    いま求められているのは、リベラルの再構築だ。
    atashi9
    atashi9 2014/02/05
    今更の上にオチがはずれてんじゃん。
  • 【正論】年頭にあたり 今こそ、福澤の「脱亜論」に学べ - MSN産経ニュース

    □拓殖大学総長・渡辺利夫 歴史は循環するものだとつくづく思う。現下の極東アジア情勢は、開国・維新から日清・日露戦争にいたるあの時代の「生き写し」ではないかと思わされるほどである。往時の極東アジア地政学を慧眼(けいがん)のオピニオンリーダーがどう捉えていたのか、その言説が現時点から振り返っても正鵠(せいこく)を射たものであれば、現在のわれわれがどう立ち居振る舞うべきかをその中に読み解く、そういう知的営為を欠かすことができない。 ≪亡国の危機背に書いた言説≫ 国際情勢判断に寸分の狂いでもあれば亡国につながるという緊迫の状況下で書かれた言説こそが、危機の時代にあってなお幻想的なポストモダニズム気分を拭うことのできない日の世論をまっとうなものとする唯一の方法にちがいない。日の領域を侵犯し、日人の歴史認識に刃向かう中国韓国を眼前にしていると、明治18年、福澤諭吉がみずから創刊した『時事新報』

    atashi9
    atashi9 2014/01/11
    時間のある時に読みたい
  • 【主張】都知事選 「脱原発」だけに流れるな - MSN産経ニュース

    「首都の顔」選びが俄然(がぜん)、大きな注目を集めはじめた。舛添要一元厚生労働相らに続き、細川護煕元首相が2月の東京都知事選への出馬を決意したためだ。 細川氏は「脱原発」に強い関心を持ち、「原発即ゼロ」を唱える小泉純一郎元首相に協力を求めるという。細川氏への支援が広がれば、「舛添氏優勢」とみられていた選挙の構図が一変する可能性もある。 だが、東京五輪の招致が決まりながら、猪瀬直樹前知事が金銭問題で辞職する異常事態を受けて、今回の知事選が行われることを忘れてはならない。 6年後の五輪開催へ山積する課題を解決し、巨大組織を動かす力が新知事には求められる。首都直下地震に備える防災都市づくりも急がれる。候補者らは、都民の安全と首都の将来を着実に描くための政策論争を展開してほしい。 候補者調整で、自民、民主両党は、ともに自前の候補を立てられなかった。自民党には同党を離党した舛添氏への反発も根強かった

  • 共同幻想 - Wikipedia

    出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年2月) 共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間の中で共有される幻想の事。 日の思想家である吉隆明が用いたことで有名となった言葉である。ただ吉は、自分の共同幻想とは、カール・マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、ただ手垢がついているから使いたくなかったと述べている。 3つの幻想領域[編集] 吉隆明は、著書『共同幻想論』(1968年)で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。 自己幻想 個人と自我の関係。芸術などの個人的な活動がこれに当たる。他者に影響を及ぼすことはほとんどなく、無制約に自由である。 対幻想(ついげんそう) 個人と他者とのプライベートな関係。家族・友人・恋人がこれに当たる。 共同幻想 人間同士の公的な関係。国家・

  • アラン・ブルーム 「アメリカンマインドの終焉」 3 - 週に一冊

    p250 興味あることはニーチェとハイデッガーの二人が、ドイツアカデミーの世界から、「いい人物なら好きになれないやつなんかいない」アメリカのマーケットに運ばれてきたことである。「幸福な人間」がいかに悪しき状態にあるかを知識人に説明するために作られた言葉が、逆にいかに未来に対して開かれた存在であるかを世界に対して宣言する言葉として採用されることになったのである。 どうやらこの二人のことばは、輸送のさいに傷んでしまったのだ。 p252 「実存主義は、存在と無という問題に対しわれわれに何をしてくれただろうか、あるいは、価値は善悪の問題に対し、創造性は自由と必然性という問題に対し、聖なるものは理性と啓示の問題に対し、それぞれ何をしてくれただろうか。」アメリカでは、これらの語によって説かれているものは、その背後に何の秘密も隠してはいない。ヨーロッパで悲劇を生んだかつての葛藤は、アメリカでは“我もよし

    アラン・ブルーム 「アメリカンマインドの終焉」 3 - 週に一冊
  • アラン・ブルーム 「アメリカンマインドの終焉」 2 - 週に一冊

    [アメリカンスタイルのニヒリズム] P157−8 M.ウェーバーが言うように、計算をこととする理性が行き着く先は、結局、共同体の形成をおこなわず、共同体を支える価値も持たない、心情もなければ魂も欠いた、無味乾燥な管理であろう。一方、感情はうわべだけの快楽に利己主義的におぼれる結果に陥るだろう。政治的傾倒は、ファナティズムを助長する傾きがあるだろう。そのとき、人間に価値定立を行なう十分な力が残されているかどうか、それは疑問である。 価値相対主義の中では、人々はある行いの帰結を知的・道徳的な根拠なしに取り仕切らなければならない。誰でもある判断をするには、相対的ではない価値を必要とするが、この価値は、うわべだけではない特異な人間の創造性を必要とする。しかしこの創造性はいまや涸れつつあり、アメリカの価値相対主義の理性には確かな根拠を持ったどんな支えもない。あるのは、発言者全員がそれぞれの立場で正し

    アラン・ブルーム 「アメリカンマインドの終焉」 2 - 週に一冊
  • アラン・ブルーム 「アメリカンマインドの終焉」 1 - 週に一冊

    今世紀最初の年のニューヨークテロのとき、二機目が突入するのを、帰宅してすぐのニュースでリアルタイムで見た。そのとき「アメリカの終わりの始まりだ」とおもわず呟いたのを憶えている。ローマ帝国が周辺民族の反乱に耐えられなくなった時も、こういう事が起きたのだろうと思っただけで、平凡なサラリーマンの私が何かを深く考えたわけではなかった。 資主義は、自らの性として、資源と市場の風船を地球大まで膨らませ続けねばならず、奪われるアラブの怒りは収まらないのは分かっていた。しかし、ふるえる市民をTVで見ながら、彼らの気づかないアメリカの内部において「偉大な」アメリカンマインドが終焉しつつある、そのことのほうがアメリカにとっては深刻なのだとまでは、知る筈がなかった。 危険な病巣は多民族の共生、人民発議が生きる民主政治、異なる価値観への寛容、男女平等・・・などの、正面からは誰も異議を唱えられない社会体制の奥に

    アラン・ブルーム 「アメリカンマインドの終焉」 1 - 週に一冊
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