CyunさんTOP 旅行記871冊 クチコミ1415件 Q&A回答73件 949,716アクセス フォロワー87人 川越ぶらぶら散歩 ヤオコー美術館と氷川神社を周りました。 ヤオコー美術館はスーパーのヤオコーがやっています。 展示室が2室というこじんまりとした美術館です。 三栖右嗣の作品が展示されています。 建物も伊東豊雄という建築家が設計したものだそうです。 氷川神社は縁結びの神社です。 シーズンがら、合格祈願の方も多く来ていました。
「法隆寺」は、日本人のオリジナリティあふれる、 さまざまな発明・発見・工夫が凝縮され、組み合わされた宝庫である。 だからこそ、1300年もの星霜(せいそう)に耐え、今や世界最古の木造伽藍(がらん)たりえている。 しかも、そこには現代日本の科学技術文明に反省を迫る何かがあり、さらに人類の明るい未来への扉を開くための「暗号」が秘められている。 われわれの多くは、その暗号が発信されていることに気づいていない。 幸い、暗号をはっきりと解読し、その意味をわれわれに開示してくれる一人の人物がいる。 「最後の宮大工」といわれる西岡常一(にしおかつねかず)棟梁がその人だ。 西岡棟梁は、自ら采配をふるった法隆寺の「昭和の大修理」(注1)を通じて、法隆寺のオリジナリティを身をもって知った。 そして、法隆寺が発する暗号のメッセージに同調し、それを解読しえたのだった。 木の文化がつくった機能美の構
by 睡蓮 京都には数多くの文化財があり観光客で賑わいますが、すべてが公開されているわけではありません。そんな貴重な非公開文化財を見られる「第47回京都非公開文化財特別公開」がスタートし、普段は決して見られない文化財が一般向けに限定公開されています。 イベントは文化財愛護の関心を高めるため、京都古文化保存協会が行っているもの。今回は京都市内18ヶ所の寺社が公開対象となっています。 中でも、京都市上京区にある「浄土宗 浄福寺本堂」は初の一般公開となります。建てられたのは桓武天皇の延暦年間(782年~806年)。788年に最澄が比叡山に延暦寺を建てたのち、天台宗の寺として建てられました。浄土宗の寺も兼ねるようになったのは室町時代末期の1525年になってからです。 Googleマップで緑色の矢印の指している場所にあります。東には京都御所や晴明神社が、西には北野天満宮があります。 大きな地図で見る
忍者寺、と聞いて何を思い浮かべるだろうか。 バン!と叩くと畳や戸板がひっくり返り、窓から大凧に乗って高笑いしながら飛んでいく…のはマンガの読みすぎ、テレビの見すぎですね。 しかし、テレビやマンガの世界でなく、「忍者寺」は実在するのだ、金沢に。 戸板はひっくり返るのか、隠し部屋はあるのか確かめに行ったのだが、予想以上に素晴らしいところだったでござる。(注・忍者は出てきません)。 (乙幡 啓子) 必ず写ってます 最初に取材の申し込みをしたとき。「必ず、当方の説明員入りで撮影してくださいますか」ということだった。撮影した写真を無断使用されたことが何度もあったからだという。これは、ちゃんと居住まいを正して取材しないと、と多少、緊張して出かけた。 しかし応対いただいた岩田さんは大変物腰やわらかく、そしてわかりやすく流れるような説明。緊張は一気にほどけた。 以上のような事情で、これからの記事の大部分に
名称:広島大仏 別名:廣島大仏 住所:広島県広島市中区大手町1丁目3-10(旧細工町) 管理者:西蓮寺 種別:阿弥陀如来 宗派:浄土宗 高さ(台座込み): 高さ(本体のみ): 材質: 本体重量:1トン 建立:1950年(昭和25年) 建立者:香月崇海(西蓮寺住職(当時))、広島市仏教連合会 公式サイト:西蓮寺 参考サイト:2b113 西蓮寺、好き。 「広島大仏」を探せ!ってゆうか、探してちょ(^^;)、年表ヒロシマ 1955年、中国新聞 特集・細工町死没者名簿、阿弥陀如来坐像(広島大仏) 概要: 原爆犠牲者の慰霊の守り本尊として建立されたが、昭和30年以降、所在不明となる 1950年(昭和25年)原爆犠牲者仮供養殿へ移される 1955年(昭和30年)8月12日の中国新聞には、「広島市細工町、西蓮寺にある広島大仏が所有権争いの結果広島県佐伯郡五日市の寺に移転」との記事が掲載 このエントリの画
菊の香や 奈良には古き 仏たち 松尾芭蕉 目 次 ◎ 法隆寺のお話 ◎ 東大寺のお話 ◎ 興福寺のお話 ◎ 薬師寺のお話 ◎ 新薬師寺のお話 ◎ 元興寺のお話 ◎ 室生寺のお話 ◎ 当麻寺のお話 ◎ 浄瑠璃寺のお話 ◎ 法華寺のお話 ◎ 円成寺のお話 ◎ 秋篠寺のお話 ◎ 般若寺のお話 ◎ 唐招提寺のお話 ◎ 明日香のお話 ◎ 柳生街道のお話 ◎ 山の辺の道のお話 ◎ 仏像の誕生 ◎ 仏陀の生涯 ◎ 仏塔のお話 ◎ 仏堂のお話 ◎ 寺院建築-飛鳥時代 ◎ 寺院建築-天平時代 ◎ 寺院建築-平安時代 ◎ 寺院建築-鎌倉時代 ◎ 寺院建築-大仏様 ◎ 寺院建築-禅宗様 ◎ 寺院建築-折衷様 ◎ 寺院建築-室町時代 ◎ 寺院建築-桃山時代 ◎ 寺院建築-江戸時代 ◎ 瓦のお話 ◎ 屋根のお話 ◎ 基壇と柱のお話 ◎ 斗栱と蟇股のお話 ◎ 垂木のお話 ◎ 窓のお話 ◎ 塀のお話 ◎ 門のお話 ◎
岩の上って、なぜか神社みたいなものがある。 と、言われてもピンと来ないかたもいるだろう。そもそも都会だとまず「岩」とか生活圏にないかもしれないし。都会の場合はビルの屋上などが岩の代わりを務めていることが多い。ビルの屋上にもなぜか神社的なものがよく設置されてる。それと同じくらいの率で、岩の上にも神社(もしくは神社的なもの)が建っている。 今回はそれらを巡る。普段「うん、在るなー」と思いつつも足を運ぶ機会はなかったのだが、行ってみたらこれがなかなか、どれも見ごたえたっぷりだったのだ。 (T・斎藤)
たびたび引用させていただいている 中村 達太郎 著「日本建築辞彙」の新訂版が刊行されました。 下が、その案内パンフレットの一部です。 註 原本は「いろは」順ですが、この本では「五十音」順に編集されています。 「日本建築辞彙」については、「語彙に見る日本の建物の歴史」 に謂れを書きました。 日本の建築で使われてきた用語は、まずほとんど網羅されているのではないでしょうか。 初版は明治39年。 20年ほど前、筑波の古本市で、何と500円!で購入したのは、昭和4年版です。それほどのロングセラー本だったのです。 その外観が下の写真。ボロボロになりつつあり、触るのがこわい。 [註記追加 16日 9.34] 号外の補足を追加します。 簡単な日本の建築の歴史年表。以前にも載せたと思います(下註)。 註 http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/204452a7d2d6f4e9b3c
[日常][街]東武東上線川越駅からクレアモールを抜け、まず蔵造りの町並みを目指す。 途中にかっこいい近代建築が。旧武州銀行川越支店。中も自由に見学して下さいと書いてあったけど、ドアは閉まっていた。 さらにその先にレンガ造りの建物が見えたので近づいてみる。川越キリスト教会。窓のサッシが木製だった。 そして蔵造りの町並み。江戸時代からの街並みが現代に受け継がれている・・・と思っていたのだが、実はこれらの街並みは明治以降のものらしい。明治26年に大火があったとき、当時は数軒しかなかった蔵作りの屋敷だけが燃え残ったため、周りの建物も揃って蔵造りにしたということ。 大正、昭和初期の建築もある。 時の鐘。 菓子屋横丁。 近くのパン屋さんでチョココルネとメロンパンを昼食とした。 川越氷川神社。やけにカップルが目立つと思ったら縁結びの神様が祭られているみたい。 川越城本丸御殿。中も見学した。一般は100円
台東区文化ガイドブック・文化探訪 サイトリニューアルのお知らせ Renewal of This Site 本サイトは、「台東区文化探訪アーカイブス」と名称を変え、2020年3月に下記のサイトへ移転しました。下記バナーをクリック、または10秒後に自動で移転先に切り替わります。 This page was renamed as "Taito City Culture Guide Archives" in March 2020, and the materials released so far are posted on the following website.You can click the following icon, or it will automatically change to a new page after 10 seconds. 该页面在2020年3月更名为“
金沢文庫は昔は六浦の内。六浦は鎌倉ではありませんが、しかし鎌倉時代には鎌倉の東の口として経済・流通面で重要な役割を担っていました。朝比奈切通しはまさにその六浦と鎌倉を結ぶために作られた道です。 どう重要だったのかと言うと、対岸の上総・下総からの物流と言う地理的なものと、鎌倉が港としてあまり条件が良くないのに対し、こちらは東京湾の中、それも6つの連なった浦と言う名の通り、船を着けるには最適な地形だったからでしょう。おっと、今の地図で考えてはいけません。昔は金沢文庫駅も六浦駅も海の中でした。 赤門と仁王門 浄土式庭園 北条実時と称名寺 北条顕時 北条貞顕(崇顕) 北条貞将 金沢文庫・運慶作大威徳明王坐像 赤門と仁王門 2~3年金沢文庫に住んでいたことがあるのですが、その名の由来であるここ称名寺・金沢文庫に来たのは初めてのこと。上が惣門(総門)、赤く塗られていることから赤門とも呼ばれます。
福井の第一の目的、永平寺を見学してきました。永平寺は、今から約760年前の寛元2年(1244)、道元禅師によって開かれた座禅修行の道場です。境内は三方を山に囲まれた深山幽谷の地に、中心となる七堂伽藍と大小70余りの建物が並んでいます。永平寺は曹洞宗の大本山として、僧侶の育成と檀信徒の信仰の源となっています。修行は、座禅をし、朝課(朝の読経)を行い、行鉢(正式な作法に則り食事をいただくこと、永平寺の食事は精進料理)、そして作務(相似などの労働や作業)を行います。 「七堂伽藍」とは、山門、仏殿、僧堂、庫院、東司(お手洗い)、浴室、法堂のことです。これらの伽藍(寺院の建物)が、斜面に整然と建ち並び、それらを回廊で結びます。禅宗伽藍は、山門、仏殿、法堂を中心軸上に南から縦に並べて、諸堂を左右対称には位置するところに特徴があります。その配置全体は縦に長く深く、背後は山すそに入り込んでいます。しかも禅
「和洋折衷」というと、今ではアイデアに詰まったプランナーが打ち出す安直な意匠になり下がっていますが、近代の和洋折衷ものは、おしゃれな意匠というレベルをはるかに超えて切実な問題が刻印されていて、独特の存在感を醸し出しています。今回は、東京は文京区本郷にある、「求道会館」を紹介させていただきます。 ▲これが外観。どう見てもカトリックの教会ですよね。 近角常観という浄土真宗大谷派の僧侶が、明治33年にヨーロッパまで視察に訪れたのですが、そこにある教会を見て、そのウエルカム感に腰を抜かしました。誰でも気軽に入れて、牧師の話を聞けるようになっている。敷居の高い日本の仏教とは根本的に考え方が違う…と、驚いた彼が日本に帰って建てたのが、この求道会館です*1。さっそく中に入っていきましょう。 ▲一歩踏み入れると、教会のように座席が用意されています。ここで礼拝を…と思って正面を見たら…ん? ▲そこには仏像が
本門寺炎上……墓地満開の桜 東京大空襲の被害、 経堂と供養塔…一切経が収められた八角形の書架 池上本門寺 五重塔……冬の太陽に美しく輝く五重塔 池上本門寺の五重塔夕景 …冬の夕景 桜の墓地にねむる…狩野探幽の墓もある 力道山の墓・力道山の半纏とトニー谷の半纏 大坊坂の道標……道標と花火師「鍵屋」の墓 宝塔と本行寺……桜咲く墓地へ裏道 浮世絵に描かれた本門寺……歌川広重の浮世絵 『本門寺暮雪』1……長谷川平蔵 鬼平犯科帳の舞台 『此経難持坂』決闘 2……雪中の決闘 照栄院妙見堂…北辰菩薩を祀る妙見信仰 長栄稲荷……本門寺の守護神として盛況を極めた 本町稲荷神社…車坂下の稲荷神社 堤方神社……本山の台地にある神社 太田神社…那須与一伝説、武運長久 永寿院…堀のある墓、万両塚 池上梅園……春を待つ池上梅園の梅 旧本坊の名園、松濤園 川瀬巴水の描いた……池上本門
今年も、毎年秋恒例、東京都文化財ウィーク 2007の文化財特別公開が行われていますが、 今回は、 11月4日(日)に、文京区本郷の「求道会館」を見てきました。 求道会館 (東京都本郷6-20-5 11月4日のみ、内部一般公開) 明治の浄土真宗僧侶、近角常観(ちかずみじょうかん)が、 ヨーロッパ宗教事情の視察に行き、キリスト教の思想、教会の礼拝、福祉活動等が、一般社会に広く深く浸透していることにショックを受け、 仏教思想をより地域に密着した方法で一般大衆に浸透させるべく、青年学生寮+集会場として建設したのが、 この、求道会館、です。 れっきとした仏教の施設ですが、寺院ではなく、歎異抄を始めとする仏教の教えを広めるための、 文字通りの「教会」。 したがって、外観、堂内とも、ほとんどキリスト教会。 法要などの宗教儀式でなく、あくまでも法話が目的なので、1階席は椅子席。 堂内中央には、一般の浄土宗
宇治の平等院鳳凰堂は、やはりというかなんというか、「美」でしかないものだと思う。「真」あるいは「善」というものが存在しない。これが法隆寺と同じ「寺院」にカテゴライズされる事がぼくには了解できないのだが、しかし、では建築としてどのようにジャンル分けできるかと言えば、どこにも当てはまるものがない。東大寺南大門のように構造がそのまま装飾になっている、というのではない。構造が、構造という側面と装飾という側面の二重性を持っているのではなく、いわば自立した装飾体が平等院鳳凰堂という存在になっているのだと思う。おそろしく繊細な組木細工が、そのまま大きくなって建築的スケールを獲得したと言い換えてもいい。「見られること」を意識した造形は映画的で、実体がそこにあるにもかかわらずどこまでいってもイリュージョンにしか見えない。思わず感動してしまい、その感動の強さに思考が停止してしまう。そしてその感動は、どこまでい
古代から中世にかけての寺院というのは、いわば当時の人々=各端末に宗教というOSをインストールするためのハードウエア/ソフトウエアみたいなものだったのだろう。法隆寺は、古代の土俗的なOSしかもちあわせていなかった日本人に、仏教という巨大かつ精密な最新OSを上書きするための、最初とは言わないまでもかなり初期のシステムといって間違いがない。細かな地域領主の脆弱な連合体であった極東の群島を、大和朝廷という統一された構造として組み立て直すために、ハイ・テクノロジー先進国である中国から輸入されてきた、まったく馴染みのない人工的なシステムが仏教で、それは寺というハードウエアがなければ走らないプログラムだったわけだ。世界遺産があるとは思えないほど静かで人気のない朝の斑鳩町を歩いた先にある西院伽藍を見ていると、立体的に各パーツが連結された回路のように感じられた。 法隆寺の伽藍を構成する各構築物とそこに納めら
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