手書きで書かれた“驚きの看板” ところで参道の入り口付近には、この神社の由来を記した看板が立てられている。手書きで書かれた文字は綺麗とは言い難く、経年劣化で色褪せていた。 私は神社を訪れたときも、洞窟夏祭りのことに集中しすぎていて、この看板をきちんと読んだことがなかった。だが、調査に行き詰った時、ふと看板に目を向けると、とんでもないことが書かれていた。 今から六百数十年の昔、御(後)醍醐天皇の御代の元享(亨)年間1321~1324に、天皇は鎌倉幕府の執権 北条高時を討とうと考えられ、側近の公家 日野資朝郷(卿)を使いとして国々に勤王の士を募られた。山伏姿の資朝卿は東国に下る途中 この天ヶ峯の洞窟で美濃の武士 土岐頼貞 多治見国長等と討伐の密議をしたという。 その時、資朝卿が奉持してこられた。 山城国伏見稲荷の御神霊倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命三座の御分霊を羽崎の豪族に「千代に八千代に保ち奉