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なぜ…?日本の二大開祖「空海と最澄」が絶縁に陥った「深刻な事情」(週刊現代) @gendai_biz
風向きが変わったのは空海の帰国後、806年ごろだった。国内の皇族や貴族が、最澄が主として学んできた天... 風向きが変わったのは空海の帰国後、806年ごろだった。国内の皇族や貴族が、最澄が主として学んできた天台教義ではなく、空海が留学先で修行した密教に興味を示したのだ。 密教に造詣の深くない最澄は困り果てた。そこで、プライドを捨て、7歳下で、身分も低かった空海に「弟子入り」する。両者の交流が本格化したのはこのころからだ。 だが、最澄自身もまた、多くの弟子を抱える身。直接空海に面会し、修行することは難しかった。そこで、文字を通じて密教の心得を教わるべく、空海に何度も手紙を送る。 そんな最澄に対し、空海は「密教は体験によってのみ学ぶことができる」と冷ややかな態度を取り続ける。空海は僧としては最澄よりも「格下」。最澄は怒りをこらえ、自分の一番弟子を空海のもとに派遣し、弟子を通して密教を学ぼうとした。 だが813年、最澄の堪忍袋の緒が切れる。きっかけは、空海の持つ密教の経典『理趣釈経』を、最澄が借りよう
2019/05/18 リンク