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決死の脱出劇!頼朝・時政・義時が辿った逃走経路の謎(呉座 勇一)
北条時政・義時はどこへ逃げたか ところで、石橋山合戦に敗れた北条時政・義時はどこに逃げたのか。この... 北条時政・義時はどこへ逃げたか ところで、石橋山合戦に敗れた北条時政・義時はどこに逃げたのか。この点に関して『吾妻鏡』の記述は錯綜しており、不自然な点が多い。『吾妻鏡』治承四年八月二十五日条によると、北条時政は武田信義らの甲斐源氏に援軍を要請するため、甲斐国に向かった。しかし頼朝の安否が定かでない状況では援軍要請に応じないだろうと思い直し、土肥方面に引き返して頼朝の後を追った。そして同月二十七日条によると、北条時政・義時らは土肥郷の岩浦で船に乗り、安房国を目指した。両条を整合的に理解しようとすると、時政は頼朝と合流した上で頼朝の使者として甲斐に向かうつもりだったが、合流できずに義時と共に安房に渡海した、ということになる。 とはいえ、最初は西の甲斐に向かおうとして、考えを変えて東の安房に進むという時政の行動はいささか不可解である。敗走の最中で頭が混乱していたとも考えられるが、『吾妻鏡』の曲筆
2022/02/23 リンク