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熊本城でも大坂城でも江戸城でもない…城マニアが「史上最強の軍事要塞」と断言する城の名前 晩年の徳川家康が豊臣家との戦争に備えて建てた
最も防御力が高いのはどの城か。歴史評論家の香原斗志さんは「徳川家康が建てた名古屋城だ。本丸は高台... 最も防御力が高いのはどの城か。歴史評論家の香原斗志さんは「徳川家康が建てた名古屋城だ。本丸は高台にあり、そこにたどり着くまでに広大で深い堀と高石垣で囲われた曲輪を何度も越えなければならない。史上最強の軍事要塞といえる」という――。 征夷大将軍になっても家康が最も恐れていたこと 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、総大将を務めた東軍が大勝しても、同8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられても、徳川家康はまだ天下を掌握したとはいえなかった。 関ヶ原の戦いは、あくまでも豊臣政権の枠内における内部抗争で、家康は豊臣恩顧の大名たちの力で勝ったにすぎなかった。また、慶長8年(1603)の時点では、豊臣秀頼が成人したら関白になって天下を治める、というのが一般的な認識だった。 だからこそ、家康は征夷大将軍への任官にこだわったのだが、武家の棟梁とうりょうである将軍になっても、豊臣家の権威自体が否定されるわけ
2023/04/10 リンク