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「ウチの家は応仁の乱で焼けた」と言う京都人がたまにいるけど90%の確率でウソです→その理由に納得の声「知らなかった」
京都秘封探訪 @k_rspkyoto そいやめんどくさい京都人が「ウチの家は応仁の乱で焼けた」とかのたもうたり... 京都秘封探訪 @k_rspkyoto そいやめんどくさい京都人が「ウチの家は応仁の乱で焼けた」とかのたもうたりしますけど、江戸時代の終わり頃のどんぐり焼け(天明の大火)で9割の京都市民が家を焼失しているはずなので、応仁の乱うんぬんの話が出た時は90%の確率でウソです。 リンク Wikipedia 応仁の乱 応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(146
2021/01/05 リンク