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記事へのコメント102件
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watermaze
司馬遼太郎とか松本清張とかの問題は創作云々より正統な歴史学に対するオルタナティヴに祭り上げられてしかも本人もまんざらでなかったあたりだな。特に松本清張は。こういうのはニセ史学と呼ぶべき
ans42
司馬作品を通して「歴史」を好きになった人は、他の書物も読むようになり事実と仮説がなんとなくわかるようになる。「龍馬」を好きになった人は、小説内の主人公を絶対視するため、仮説であることに気づかない。
machida77
誤読している反応がひどい。悪魔の証明→悪魔の才能とか/吉川英治も『随筆宮本武蔵』で「小説が読まれれば読まれるほど、作家の創意と、正伝の史実とが、将来、混淆されてゆかれそうな惧れがある」と書いている。
bell_chime_ring238
史学科に入ってきた学生に、まず指導教授がやることは「創作と史料は違う。歴史学は史料を読むんだ」と植え付けることだったりする。その意味で、史実とは何かを試行錯誤し続けてきた中国史を専攻してよかった。
casa1908
一級資料とされているものでも、創作に近い脚色や、意図的な歪曲があったりするわけで、史実と創作なんて紙一重。キリスト教徒に向かって聖書は小説として読めって言ってるのと同じようなことに感じる。
shigak19
経済小説の高杉良『小説日本興業銀行』について中山素平が自分の発言を良く調べてあるって褒めて、高杉自身が何言ってるんです会話なんて創作ですよって言ってもいや僕の言ったように書いてるといったという挿話が
tikuwa_ore
「司馬史観」って言葉は妄信するバカが絶えない辺りから生まれた、いわば「放射脳」とか「アベニクシー」と同意義の言葉だと思うんだけど、それを持って作家のせいにするのはかなりの違和感。
Cichla
「さらば国分寺書店のオババ(椎名誠)」のラストに,司馬遼太郎の著作を海音寺潮五郎や大佛次郎の区分に入れ,柴田錬三郎や池波正太郎,山本周五郎と明確に区別していたオババを敬服する下りがあった
Domino-R
史実と違うとか別にどうでもいいし、小説と史実を読者が混同しちゃうのも作者のせいじゃない。ただ「司馬史観」とまで呼ばれるのは、あるイデオロギーにべったり基づいてて(自己)批判的な視点が無いからなの。
t-tanaka
まあ,先生方のやってることも大差ないですよ。歴史学者が研究に使ってる史料ですら,その時代の創作かもしれないわけで,「正しい歴史」なんてものはドラえもんのタイムテレビでも発明されない限りありえない。
Shin-JPN
事の本質は「司馬先生上手すぎ」とかの話ですらない。「知った気になりたい」という人の性そのもの。真の歴ヲタなら「それは間違い」と言えることが希にある程度で「真実はこう」と言えることはまず無いと知っている
toshi20
みなもと太郎先生が坂本龍馬好きが高じて「風雲児たち」を生み出した事を知ってるので、悪く言うつもりは1ミリもない。というわけで、俺は「司馬史観」はないけど「みなもと史観」は多分にあるかも。
Inoul
高校時代の塾講師の「歴史は全人類の認識が詰まった壺の側面にある亀裂から滲み出てきた一縷の認識みたいなものでしかない。その亀裂が歴史文書で一縷の認識はそこに書かれている事柄だ。」という言葉を思い出した。
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2016/06/12 リンク