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北限の稲作にいどむ
これまで日本の農業技術を支えてきた一つに試験場技術、関連企業技術とともに篤農家技術があった。とく... これまで日本の農業技術を支えてきた一つに試験場技術、関連企業技術とともに篤農家技術があった。とくに明治10年から20年代にかけ政府の対策もあり、全国各地に多くの篤農家が生まれ、「農談会」も組織された。それが全国農事会となり、さらに明治33年(1900年)の農会令により農会が発足し、その後の農業技術の発展に重要な役割を果たしたのである。 必要な篤農家技術の再認識 戦争直後長野県の一農家がはじめた保温折衷苗代のように、昭和20年代においてもこの篤農家技術は稲作の安定的生産に貢献していたのである。 中山久藏氏はこうした篤農家の一人であった。本書でも明かなように、この篤農家技術の重要な特徴の一つは気象、土壌、地形など地域の農業条件に密着した技術であったことである。中山氏が行った地形を利用した雪解け水の暖水路設計や種籾の発芽促進および田植え後の水管理の工夫はその象徴で、不可能といわれた寒冷地での稲作
2013/04/11 リンク