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高輪築堤 由来に異論 「軍の反対で海上に」は誤り?:東京新聞 TOKYO Web
まずは鉄道開業への道のりから。明治政府が鉄道建設を正式に決めたのは明治二(一八六九)年十一月。翌... まずは鉄道開業への道のりから。明治政府が鉄道建設を正式に決めたのは明治二(一八六九)年十一月。翌三年三月に測量や一部工事が始まり、十月には高輪築堤も着工された。新橋-横浜間の開業は明治五年九月(新暦の十月)。大政奉還から五年ほどだった。 新橋付近は、幕府が藩に下賜した武家地を収用して、駅舎などを含む鉄道用地にした。都公文書館に、東京府(当時)が各藩と交渉した記録が残る。現・田町駅付近の海沿いにあった薩摩藩などの屋敷地に着目したのは江戸・東京の都市史に詳しい明治大の松山恵教授(47)。「この一帯は江戸時代、各藩が自前で土地を買い取って屋敷にした、いわば私有地。幕府下賜の武家地ではないのでスムーズに収用できなかった。それで海に築堤を造ることにしたのだろう」と話す。 政府は明治三年五月、当初予定していた路線を海側にずらすと決定。田町付近は一部を除き、屋敷地を避けるように築堤上に線路を敷くことにな
2023/07/22 リンク