ジョナス・メカスによる365日映画、33日目。 Day 33: Jonas Mekas Friday February. 2nd, 2007 2 min. 50 sec. Ornette Coleman practices in his studio. オーネット・コールマン スタジオでの練習風景。 ジャンルを問わず、メカスは「前衛avant-garde」に暖かいまなざしを注ぐ。フリージャズの歴史そのものであるオーネット・コールマン。1930年生まれ、77歳のアルト・サックス奏者は今もって人生の「前衛」を生きている。それは黙々と練習する姿に現れている。練習とはいえセッション相手の若いピアニストの必死ぶりもまた印象的である。その必死さを引き出す凄みがオーネット・コールマンの「音」にはある。 YouTubeをはじめ、ネット上には"Ornette Coleman"に関する情報はたくさんある。そん
English Essentials 1 (ポッドキャスト(Podcast)で英会話 iTunesとiPod) <日本人口>初めて減少 少子高齢化、一段と進む (所謂雑感) 新規事業担当役員日記〜あいさつができない人 (失敗しない中小企業の新規事業立ち上げ方法) 岡田武史 〜メガネの料理人〜 (FC.VIRIDIS BLOG) ほぼ日手帳の秘密。 (関西をこよなく愛する明石のタコ) ほぼ日手帳の秘密。 (関西をこよなく愛する明石のタコ) 【ほぼ日手帳の秘密】 (blue moon) 来年の手帳はほぼ日手帳 (男が小物ブログbyひで松) ほぼ日手帳 2005 (3) (die in a stampede) (役立タズ此処ニ眠ル。) ほぼ日手帳の秘密 (pocketbook) 以前から書いてゐるが、ビジネス文書に関しては、相当の怒りを抱いてゐる。 とはいへ、「ビジネス文書」そのものに対して怒つ
当用漢字に該当せず一般的ではない漢字を平仮名に直し、かなと漢字をごちゃまぜにして表記することを、「交ぜ書き」と呼びます。例えば、「脳梗塞」は「脳こうそく」、「改竄」は「改ざん」と表記するといった按配です。 弊社では数年前から「交ぜ書き禁止」が基本ルールとなり、それまで平仮名表記していた漢字も「ルビ」を付けて使用するようになりました。 その「ルビ」ですが、使い始めてから「トラブル」というほどではないんですが、ちょっとした「やっかいの種」を撒き散らすようになったんです。 その1:行間の狭い紙面や横書きの原稿には使えません 新聞には、運動面のように情報をテンコ盛りするために行間を狭めてある紙面(狭い行間のことを「ウスイン」と呼びます)があります。その他の紙面でも、国際面や経済面の情報コーナーなども本来の行間の半分に狭めています。 弊紙運動面の実例です。「翻弄(ほんろう)」となってますね♪
昨日30日(火)はゼミはなし。 来週の火曜日のゼミが今年最後のゼミになる。 というわけで、今日は、 「そ」のこと の続きです。 ところで、「そ」の話のせいか、次のところに出ていることを知りました。 僅かでも興味を持ってもらえたのなら、幸せです。 http://a.hatena.ne.jp/funaki_naoto/simple http://jagat.typepad.jp/pc/2007/01/post_4e0b.html というわけで(どういうわけ??)、前回取り上げた次の本に基づき、教科書(体)における「そ」の流れをまとめてみました。 板倉雅宣(2004)『教科書体変遷史』朗文堂(2003.3.26第一版一刷発行、2004.1.21第二版一刷発行) 【今日は、まとめ、「そ」の流れ】 ●明治18年~昭和10年まで 写真(43頁より抜粋) 右から 1 M18 印刷局活字 2
MORI LOG ACADEMY: 縦書き(本エントリの引用された文章の引用元は全て左記のブログである。念のため) 何言ってんだろ、この人。 学校の教科書は、国語だけが縦書きである。国語が縦書きなら、ほかの日本語で書かれた教科書が何故横書きになるのか。それは、横書きの方がわかりやすく読みやすい、という判断のためだろう。 確かに横書きの方が分かりやすいからというのは間違ってないが、それは国語以外の科目の場合は図版や数字が多いからであって、縦書きが分かりにくいということではなかろう。 縦書きの文章は今や極めてマイナであり、日本人が読む文章の大半は横書きだ。(僕などは、99%は横書きである)。 いい加減なことを言うな。小説も大半は縦書きだし新聞もほぼ全て縦書き。雑誌もジャンルによって色々だが縦書きのものはたくさんある。ついでに言えば漫画の吹き出しも基本縦書き。99%が横書きって一体どんなライフス
Les Suen、祖父江慎TDC DAY 2006(パーマリンクじゃない!)に行ってきたわけだがキタコレ!もともと祖父江慎さんと、仲條×服部対談を目当てに行ってきたんだけど、個人的な興味はLes Suen(レス・ソン/孫浚良)さんが全部かっぱらってった感じ。とにかくLes Suenさんの存在を知れたことが何よりの収穫だった。一応祖父江さんとの対談形式ってことになってたんだけど、Suenさんの論理と熱意と作品の迫力と日本語の苦手さ*1とある種の空気の読め無さによって、祖父江さんがほとんどアシスタント状態に(泣)!*2で、この人何をやってるかって言うと、いわゆる本ってものを徹底的に追求してる人で、いきなりスライドで面食らうような本の概念図が出てきた。著者から読者までの間を表現した図。最初は難しい自説の紹介を延々とするのだろうかと思っていたら、その内容が実は凄く過激で本質的で面白い。そしてそれを
TDC DAY 2006行ってきました。 お目当ては中島英樹氏と祖父江慎氏だったわけですが。 色々と刺激的な話を聞けたんですが、何だかんだで一番最初に出てきたブックデザイナ(?)のLes Suen氏の話がたまらなく面白かった。 「本のデザイン=身体の延長だ」 「本のページをめくるというのは、時間の再生だ」 「1ページと2ページの『その間』には何があるか」 「本のデザインというのは、まず原稿のテキストがあって、そのテキストをどう組むかというやり方でやるけど、逆に「本のカタチ」からテキストを起こすというやり方もアリなんじゃないか」 「意味がある『もったいない』はもったいなくない」 「これからの時代、『身体』と『モノ』の関係はもっと複雑になっていい」 「(雑誌などに載るような)『情報』は『本』じゃなくて『ネット』でいい」 みたいな「本と人との関係」とか「本のデザインについての持論」を話されまして
2006年03月03日 04:12 先日、漢字への愛についてカキコしたが、漢字について産経社説「主張」がなかなかにいいことを言っていたのでコピペ♪ ↓ *国語教育 知にふたをする漢字制限:http://www.sankei.co.jp/news/060222/morning/editoria.htm >> 幼児の漢字習得能力は、大人が思うほど低くない。かつて石井式幼児漢字教育を創案した故石井勲博士が実証したことでもある。小学校に学年別漢字配当表を適用し六年間でわずか千字強の漢字しか教えないという漢字軽視の教育施策が、日本人の読解力の低下、従って学力低下を招いている。 国語表記の基本は漢字仮名交じり文だ。文字自体に意味を持つ漢字は国語語彙の過半を担う。仮名は国語の音節を表す符号だから、漢字に比べて抽象性が高く、初めに語彙を仮名で覚えさせられることは、見た目とは逆に児童にとって知的蓄積の障害
管理人からのメッセージ 現在、ブログの公開をストップしています。 検索で当ブログに辿り着いた方、ごめんなさい。
「ことばの力」昭和31年(1956)2月「子どもとことば」に発表 どこの国の子どもでも、まず数学の記号を覚えてから、数をかぞえやしない。ことばによって数をかぞえて育つのである。この子どもの時のやりかたを、人間は、同じ言葉を使っている限り、大人になっても、おそらく脱却はできないのである。 聖書がいうように、「初めにことばがあった」のである。初めに意味があったのではない。意味も知らぬ言葉をしゃべるのは、子どもだけだ、とおとなはのん気に考えている。だが、もし私たちが、よく意味を知っていることばだけで、お互に話そうと決心したら、世界中の人々が黙ってしまうのであろう。知る前にしゃべるということが、人間がことばというものを体得する根底の方法ならば、人間が少なくとも実生活の上では、この方法を、死ぬまで繰返えさざるをえない。 「お早う」ということばの意味を観念の上から考えれば、むなしいことばになるが、これ
やりたいことや知りたいことを探すのに、物理的な距離や、言語は以前と比べてそれほど障害にならない。自分ひとりでの閉じた作業ではなく、誰か他者と何かを一度も会うことなく一緒にすることも容易になった。自分の立っている場所、共同体、社会の常識といわれているものは決して絶対じゃない。立ち居地の、視点のしがい、あくまで相対的なものでしかないことを、現代人のほうが多分当時よりも近しいものとして感じる機会が増えているじゃないかと思う。それを感じ取るアンテナがはられているか、が問題であるのだろうな。 「常識」昭和30年(1955)4月「朝日新聞」に発表 常識は、何事によらず、行過ぎというものを好まない 自己は、いくらでも主張していいが、うぬぼれるな。狂信的になるな。他人の、いや敵の自己主張も尊重しろ。封建主義の道徳もこんなに難かしくはなかったのである。十九世紀以来、政治史は、この難かしさを証明して来た。これ
子どもの頃から本は大好きだった。気に入った本はその内容が身体のどこかに染み込んでいるだろうと思えるほど、何度も何度も読み返した。大きくなって、読みたい本が加速度的に増え、読める時間がぐんと減って、気に入った本を読み返すことがめっきり減った。読み返すたびに違うところで眼がとまり、当たらし喜びや気付きがあったりしたものだけれども、最近は時間の制約からそういうことも出来なくなってきた。だからというわけではないけれども、自分が読んで気になったところ、好きな箇所を抜き書きして記録しておくことはあとから振り返った時に記憶を呼び戻す良いきっかけになるんじゃないかと思っている。 「読書週間」昭和29年(1954)2月「新潮」に発表 一定の目的も、差し迫った必要もあるわけではないが、ただ漫然と何を読んだらいいか、という愚問を、いかに多数の人々が口にしているか。これは、本が多すぎるという単なる事実から、殆ど機
身も心もおじさんですから、などとうそぶきつつ、内心すぐ近くに寄り添っていたつもりだったけれども、気がつけば、彼らと僕の年齢上の差はどんどん広がっていく。はじめから大変なことだったけれども彼らの世界をなんとなく理解するだけでも、その困難は年を追うごとに増してきている気がする。もっと全力で。もっと渾身の力で。もっと深く。もっともっと力強く。一期一会のこの時を大事にしたい。 「教育」昭和30年(1955)6月「朝日新聞」に発表 火は、またたく間に、町を総なめにして、颱風を避けて集っている港の船まで焼払った。全町民は、着のみ着のままで逃れた。東京の教科書屋さんが機を逸せず、大量の教科書を岩内町に送りつけたところ、目算は外れた。大多数の生徒たちは、教科書だけは抱えて家を飛び出していた事が判ったのである。 青少年の実態は、もっと深く隠れている。なぜ隠れているか。それは私達大人には取返しがつかぬ若さその
事物と、物事。身体と体と躯・・・言葉が違うということは、その意味するところのものにはなにかしらの違があるはず。しかしその我々がその差異を意識することはほとんどない。自由という言葉は懐の深い、たくさんのニュアンスを飲み込んでしまう言葉なのだろう。 「自由」昭和29年(1954)1月「朝日新聞」に発表 英国人は、自由を言うのに、リバティーという言葉とフリーダムという言葉と二つ持っている。正しい語感を持った英国人なら、この二つの言葉の意味合いの、或はニュアンスの相違を、はっきり感得して使い分けていると言うのである。 人は、リバティーを与えられている。リバティーは市民の権利だ。だが、フリーダムという言葉は、そういう社会的な実際的な自由を指さない。それは全く個人的な態度を指す。フリーダムとはもともと抽象的な哲学的な語であって、フリーダムが外部から与えられるというようなことはない。与えられたリバティー
賃貸暮らしのわが家の地震対策【揺れから命を守る編】 以前のブログでも記載した、防災の優先順位に基づいて対策を進めています。まだ手をつけられていない部分もありますが、ある程度まとまってきたのでざっくりとご紹介していきます。 優先順位別に改善していっているため、今回は主に地震の揺れ対策がメインになります。…
第酈章「安全とコスト」、第Ⅵ章「イギリス医療の崩壊」の2章をまとめてとりあげる。すべて「医療崩壊」の問題を直接論じている。 小松氏によれば、日本の医療崩壊は病院からの医師不足という形で表面化してきているが、これは医師の数の不足によるのではなく、医者が病院勤務医から開業へとシフトしてきていることによる(イギリスでは同じことが、国外への医者の流出という形でおこっている)。 問題はなぜ、医師が病院を離れるようになったか、あるいは国外へ脱出するようになったかであるが、それは「社会が構造的に病院医療を攻撃しはじめたから」である、という。これはマスコミの攻撃であり、警察・検察の介入であるが、一番大きいとされているのは「患者からの過度な期待と要求」であると、小松氏は考えているようである。患者は医師があらゆる問題をたちどころに解決できると過剰に期待していて、それがかなえられないと医師を攻撃する。医師は、医
ホワイトカラーエグゼンプション。アメリカにおける労働時間制度。一定の要件(職種・職務や賃金水準)を満たすホワイトカラー労働者の労働時間規制の適用を除外(exempt)するというもの。 一体、だれが、最初に、日本に、この言葉「ホワイトカラーエグゼンプション」を日本語に訳す努力もせずに、持ち込んだのか。それは、意図的に日本語訳を造らなかたったのではないかと疑う。翻訳するのに、そんなに難しい概念の言葉でない。明らかに、それによって、利益をこうむる者の仕業である。カタカナ表記でチョロマカス魂胆が見えみえである。 カタカナ外来語がなぜ多用されるかという問題を、言語学者の鈴木孝夫氏は、言語干渉という観点から考察している。 戦後の国語国字改革による漢字制限によって、漢字の価値を貶め、カタカナ外国語の濫用を引き起こしてしまった。日本語の難解さを漢字のためと思いこみ、表音文字である仮名(アルファベット)が日
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●先生方のご指摘 「この言い方は間違い?」キャンペーンで全国の先生方がお寄せくださった、「気になる言葉づかい」のご指摘、ご意見を紹介していきます。 まずは、多くの先生方にご指摘をいただいた敬語の問題。中でも、マニュアル敬語と言われる、ファミリーレストランやコンビニエンスストアでの接客時の言葉づかいに、多くの指摘が集まりました。 「〜のほう」という表現の多用。(例)「こちらです→こちらのほうです」「私から→私のほうから」。いつ頃かはわからないが、使う側の意識としては、丁寧の意を含ませているように思われる。婉曲として用いられているわけではないように考えているが、逆に教えていただきたい。(福岡県立小倉南高等学校 大戸吉三先生) 「こちら、本日の資料のほうになっております」などの「〜のほう」。婉曲な表現でストレートに言うのを避ける。それによって「丁寧」さを表すかのように思って使っているので
つい先日の産経新聞に、著作権保護期間延長をめぐる最近の議論の特集記事が載っていました。3回連載の最終回は、宮澤賢治のご遺族のお一人のインタビューも掲載されていましたので、興味深く拝読し、私なりにいろいろと考える機会になりました。 著作権をめぐって昨年から議論されているポイントは、著作権保護期間を現在の50年から70年に延長すべきか否かということなのですが、大まかに言えば、著作者やその遺族は、期間延長に賛成している場合が多いのに対して、作品を享受する側は、延長することによる弊害が多いとして、反対しているという構図です。後者の立場から精力的に意見を述べつづけているのは、あの「青空文庫」ですね。右のようなロゴをご覧になった方も多いでしょうし、反対の署名活動も展開しています。 しかし、産経新聞の記事によれば、作者の遺族の中にも「保護期間延長に反対」という方はおられて、たとえば夏目漱石の孫で、マンガ
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