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ブックマーク / ownricefield.hatenablog.com (31)

  • 脱活用論(その1) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    ロドリゲス『日語小文典』 一般的な活用論とは違った形で動詞などの語形を扱ったものとして、古いものではロドリゲス(1993)がある。これは1620年に、ヨーロッパ人学習者向けに書かれたものである。ここでは動詞をまず、現在時制・過去時制・未来時制・命令法・否定形という5つの語形から導入している。活用語尾形成法としていわゆる活用の種類による分類はしているものの、活用語尾による分類はしていない。ロドリゲスはさらに、希求法・接続法・条件法・分詞の語形を導入へと進んでいく。この扱い方は、ラテン文法の枠組みで日語を捉えようとしているのだが、ヨーロッパの言語と対照させながら日語を学習することを考えれば当然であろう。 芳賀矢一の「活用連語」 ロドリゲスのような実用目的で日語文法を記述することは、当時はまれであったようである。江戸時代になると、国学の枠組みの中で文法研究が行われ、鈴木朖、居春庭らによ

    脱活用論(その1) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ
  • 日本語文法の体系的知識(その3) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    「活用」について 国語の授業で学校文法を扱う場合に、必ず触れることになるのが活用である。しかし、現在の活用形は問題点が多い。この問題点について、奥津(1981)は3点指摘している。1つは、活用形の名称の問題である。例えば、「未然形」が表しているのが必ずしも「未然」ではない場合がある*1。2つめは、活用形の立て方が、形式を規準としているのか、意味や機能を規準としているのかが曖昧で一貫性がないことである。例えば、「書け」は仮定形と命令形の両方で使われ、「書き」と「書い」はともに連用形であるとされている。3つめは、語幹と活用語尾の捉え方が間違っていることである。「書く」も「噛む」も同じ「か」が語幹となり、来は文法機能のみを担うはずの活用語尾の方に語彙的意味が入り込んでしまっている。 このように多くの問題を抱える活用が、学校文法の中心的な地位を占めているのは、学校文法が和洋折衷的な枠組みから出発

    日本語文法の体系的知識(その3) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ
  • 日本語文法の体系的知識(その2) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    「西洋語文法」の影響 ある受験現代文の講師は「現代文とは日語で書かれた英語である」と言っていた。現代日語の書き言葉は、それくらい外国語の影響を受けているのかもしれない。柳父(1981)は、日語は土着のことばと外来の素性のことばとの二重構造をなしていると指摘している。柳父によれば、現代日語の書き言葉は外来の素性の側にあり、話し言葉は土着的であるという。外来の素性のことばの文体は漢文訓読の文体が基であり、これが蘭学、さらに英学の影響を受け、翻訳による直訳の文体が生まれた。これが柳父の説明である。その根拠として、書き言葉は話し言葉と比べて、主語が多く使われ、名詞中心の構文が多くなる点が挙げられている。 学校文法が現代日語、とりわけ書き言葉に与えた影響も見逃してはならない。堀田(1965)は学校文法の祖は大槻文法だと指摘している。昭和に入ってからは橋文法の影響の方が大きくなるのだが、

    日本語文法の体系的知識(その2) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/01/16
    「ある受験現代文の講師は「現代文とは日本語で書かれた英語である」と言っていた」
  • 日本語文法の体系的知識(その1) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    国語教育質 国語教育においていったい何を教えるべきかについては、いくつかの立場が考えられる。このなかには村上(2008)や高木(2008)のように、日語文法の体系的知識を教育内容の中心に据えるべきという立場もある。この立場は、母語の言語技術の習得や外国語学習において、その土台として母語の体系的知識が大きな役割を果たすという考えに基づくものである。高木はまた、読み、書き、話し、聞くなどというものは、学校国語教育のみで完成するものではなく、国語科教育は基礎教育教科として文法教育をまず行うべきと主張する。こうした考え方は、国語教育を文学教育や言語技術教育と捉える考え方とは区別される。この場合、文法指導は明示的で演繹的なものになっていく可能性がある。しかし、公教育における母国語学習と学校外での母語習得は外国語の場合と比べて連続的で不可分なものである。また、外国語の場合と異なり、学習者の年齢も

    日本語文法の体系的知識(その1) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ
  • 「英文法学習を潰す国文法」という問題 - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    ちょっと古いアンケートから 愛原(1981)には、中学校の国語教師が生徒に対して行った、文法教育に関するアンケートの結果が引用されている。まず「ことばのきまり」についての学習、すなわち文法学習の好き嫌いに関する質問の回答が挙げられていて、3学年とも7割以上の生徒が嫌いと答えている。そして嫌いな理由として次のような点が挙げられている。 英語の文法とごちゃ混ぜになって理解できない。 暗記することが多すぎで混乱する。 基事項が理解できても応用がきかない。 国語学習において文法に対してこのような印象を抱いてしまうと、英文法に対しても同様な否定的イメージを抱きがちになることは、容易に想像できる。日語は英語と違って生徒にとって日常言語であるのは確かだが、吉田(1994)が指摘するように日常の話し言葉の大部分は分析不要の決まり文句であるために、中学レベルの英語で文法学習の必要性を生徒が見いだせない可

    「英文法学習を潰す国文法」という問題 - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ
  • 「生活綴方」という発想(その1) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    すべての教科の基礎としての国語力、英語力の基礎としての日語力 「生活綴方」というと、教育史や受験日史で出てくる概念・用語というイメージしか浮かばない人が多いかもしれない。しかし国分(1962)に見られるように、綴方はすべての教科の基礎としての国語力の中核を形成しうる学習活動である。真にすべての教科の基礎としての国語力というものは、英語力の基礎としての日語力としても機能するものである。そこで国分(1962)を中心に生活綴方について考えていくことにする。 生活綴方における題材 「生活綴方」は、その用語のために児童・生徒が生活経験を書く「生活記録的文章」のみを扱う印象を抱かれがちである。しかし国分(1962)では綴方における文章表現の題材として、次のようなものを挙げている。 生徒を取り巻く生まの自然や社会や人間や文化ととっくませ、その地点で、捉えた事実、発見したこと、確認したこと、感動した

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  • コンポジションと作文指導 - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    コンポジションと作文 森岡(1962)ではアメリカの言語教育において行われている「コンポジション」(composition)と日の作文教育を対比させている。コンポジションは古くはギリシアに端を発する修辞(rhetoric)からの発展であり、作文だけでなく言語の4技能、さらには思考を支えるものである。見方を変えれば言語教育の基礎を作文に置くというのがコンポジションであると言えよう。 森岡によると、コンポジションとは次のような要素から構成されている。 構想 主題/材料/構成 配置 段落 修辞 文/語/文法/文体/句読法/綴り/記載法 森岡はコンポジションのこうした要素は日の国語教育においても行われているものであると指摘している。しかし同時に指導の体系が確立していなかったり、重点の置き方に偏りがあったり、各事項が有機的に結びついていない可能性があることも認めている。 森岡が上記の指摘を行った

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  • 英語力以前の「日本語の書く力」 - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    自己表現の内容 英語の上達のためには、英語で考えることが重要であると言われる。これに対して杉田(1994:37)は、「日語による表現能力や、会話をすべき内容もない人に英語で考えさせるのは無意味ですし、末転倒です」と述べている。杉田はまた、知的なコミュニケーションには思考のための強い道具としての母国語が必要であると指摘している。 同様の指摘は、寺島(1986)にも見られる。寺島は自己表現の内容を作り上げる力は母国語であるにもかかわらず、国語教育において「書く」という領域が重要視されていないことを批判している。日語で自由に想像して書くという訓練を受けていなければ、英語でも文章が書けないのは当然と言えよう。 「何かを述べよ」 岡田(1991)は受験小論文の参考書であるが、そこには次のような例題がある。 何かを述べよ。 岡田はこうした問題が日では過去の入試問題などで出題されたことがないと断

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  • 2006-02-04

    アンテナの方から得た情報です。 2001年4月に施行された「電気用品安全法」によって、過去に発売された電気機器の販売がいっさいできなくなるとのことです。現在は猶予期間中につき販売は可能ですが、猶予期間は2006年3月31日で終わることになっています。 英語学習英語教育においても、教室での指導や自宅での自習で、使い勝手のよい「往年の名機」を使いたい人が少なくないと思います。リピート機能やLL機能のラジカセは便利ですし、VHDソフトには今でも英語学習で使えるものも少なくありません。しかし、このままではそうしたことがかなわなくなります。 私も寝耳に水でしたので、ここに現状をお伝えすべく告知させていただきました。 「すべての教科の基」としての国語力 学校教育において、「国語力はすべての教科の基」と言われることが多い。また小学校への英語教育の導入に反対する理由のひとつに「国語力の養成を重視すべ

    2006-02-04
  • 2006-01-29

    文法用語の増殖 学習文法理論ではさまざまな文法学習に対応できるような記述と体系化が求められる。明示的な文法指導において、ある程度の文法用語の使用は避けられない。しかし明示的な文法指導であっても、文法用語は少ない方がよい。若林(1990)には、語学教育研究所が1984年に発表した「中学校・高等学校における文法用語101」が示されている。若林によれば、101の文法用語は1000を超えるものを検討のうえ絞り込んだ結果ではあるが、妥協の産物であるとも述べている。 文法用語の扱いには次の2つの点に留意しなければならない。 当に必要な文法用語以外は使用しない。 必要な文法用語に関しては学習者にその概念を的確に把握させた上で使用する。 だが、これが円滑には進まない事情がある。ひとつには塾や予備校の現場の問題である。伊藤(1997)は目新しい文法用語を予備校の教室で使うことは、受験生にとって一種の麻薬の

    2006-01-29
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2006/02/01
    「学校文法の現代語文法は実は古典文法を導入するために仮構された悪しき折衷と妥協の産物であり、辞書の品詞分類以外にはほとんど役に立たない。」
  • 《My Applied Linguistics》を取り巻く環境③ - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    言語学の捉え方 応用言語学は当然ながら言語を扱う。このため言語学の知見を利用することも当然と言えば当然である。しかし田中・白井(1994)の指摘のとおり、理論言語学と応用言語学とではその目的が大きく異なる。 応用言語学においては言語を学習過程と運用過程という視点で捉えていくことになる。教師はこうした視点に立った言語論を持つ必要がある。ここで問題なのは英語教師が英語の分析を扱う理論か英米で発達した理論しか知らないことが多いことである。これは英語教師の言語学の知識が「英語学」という枠組みによって提供されるからである。 言語の質を「過程」に求めようとする言語理論は、実は英語圏以外の研究者によるものが多い。例えば田中・白井はバフチンの言語過程論を援用することを提案しているが、バフチンはロシアの研究者である。また言語過程説で知られる時枝誠記も日の国語学者である。英語教師の多くは日語と英語しか読

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