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ブックマーク / ownricefield.hatenablog.com (31)

  • ゼミ発表資料 - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    2010年7月2日にゼミ*1で発表した資料を転載します。 メタ言語能力と文法教育 文法教育の目的:橋進吉と時枝誠記 国語科における文法教育の目的は、古典文法(文語文法)と現代語文法(口語文法)で異なる。古典文法教育の目的は古文解釈のためという一点に集約されるが、現代語文法教育の目的については意見が分かれている。これらを大きく分けると、日語の理解や表現の能力を高めることに直接結びつけようとするものと、間接的に結びつけようとするものがある。また、両者の中間に位置づけられる立場のものや、言語学習を超えたところに目標を定めているようなものもある。 現代語文法教育を日語の理解や表現の能力を高めることに直接結びつけようとする立場は、時枝(1950a, 1963, 1967, 1984)に見られる。時枝は「文法教育の目的は、言語表現の法則を教えることであり、言語の実践の方法を教えることである」(時

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  • 【再掲】学習文法における文型論 - Born in the northern heart of Colorfulness Land

    今回は和文英訳のための日語文法を考えるために、このブログで2008年4月に掲載した文型論を再掲することにします。 文型研究の3つの観点 日語の文型研究は、次の3つの観点があると言われている。 表現意図による文型 語の用法に関する文型 文の構造に関する文型 松井(1963)は、中学校の学習基文型として1.の観点から文型を設定していくことを提案している。これは文法知識と国語の技能との橋渡しをすることを意図したものであり、機能文法や語用論からのアプローチと言える。これはどちらかと言えば、話す、聞くといった口頭での言語活動を念頭に置いたものであると言えよう。 読む、書くという文章による言語活動に片寄りがちになることは、言語教育ではよく見られることである。このため話し言葉を出来る限り取り込んでいこうというのは、外国語教育であれ母国語教育であれ当然の成り行きである。しかし、第一言語の場合、話し言

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  • ことばを知り、ことばを身に付け、ことばを使う - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    言語学習の基礎 言語学習の基礎は、ことばを知り、ことばを身に付け、ことばを使うことに尽きるのではないか。最近特にそう思うようになった。言語技術を身に付けさせることを言語教育の目標に位置づけるべきだと思う。だが、その基礎となるのがことばそのものである。ことばを軽んじた、テクニック中心の言語教育ではその効果は半減するのではないかと思う。英語がすらすら読めるようになる学習過程の途中では、もがき苦しみながら単語の意味を考えたり文法構造を分析したりするのも悪くない。書く場合も同様である。日語と英語を照らし合わせながら試行錯誤を繰り返したのちに英語の感覚を会得するのもいいだろう。 暗記と記憶 言語知識を記憶していなければ言語活動は成立しない。記憶は心的過程である。これに対して暗記は学習活動であり、記憶のための方法の1つに過ぎない。最近では英文法や語法の問題集を使った小テストを行う学校が多い。この小テ

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  • 漢字と漢文と漢和辞典 - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    漢字を読む 最近、非常勤先の高校での空き時間を利用していろいろとを読んだり、ラテン語や中国語の学習をしたりしている。そんな状況で漢字・漢文に関するを読んだりすることがある。最近読んだのは次の3冊である。 漢字の過去と未来 (1982年) (岩波新書) 作者: 藤堂明保出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1982/09/20メディア: 新書この商品を含むブログ (1件) を見る漢字は日語である (新潮新書) 作者: 小駒勝美出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2008/03/01メディア: 新書購入: 1人 クリック: 12回この商品を含むブログ (22件) を見る漢和辞典に訊け! (ちくま新書) 作者: 円満字二郎出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2008/12/01メディア: 新書購入: 2人 クリック: 19回この商品を含むブログ (25件) を見る高校時代に中国史をあま

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  • 「国語科教育特論」発表ハンドアウト - Born in the northern heart of Colorfulness Land

    稿は、私が科目等履修生として聴講している早稲田大学大学院教育学研究科国語教育専攻「国語科教育特論II」(担当:町田守弘教授)において、2010年1月14日に発表した際のハンドアウトです。 はじめに 日頃英語教育に携わっていて、「英語以前に日語ができない」という教師の嘆きを耳にすることがある。訳読式の授業が批判の対象となる背景には、もちろん言語学習の仕組みを知らない素人が「使える英語」を渇望しているということもあるが、訳読に耐えうる日語の知識や能力を身につけていない学習者の存在も看過できない。 また、公務員試験対策講座で講師をしているときには、「文章理解」という科目で現代文・古文・英文の3分野を通しで講義をすることも経験した。そのとき、日語も英語も単語を適当に読みつなぎ、雰囲気での理解を試みる学生が意外に多いことに気付いた。日語が読めなければ英語が読めるはずがないと感じた。こうした

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  • 書くことと言語意識 - Born in the northern heart of Colorfulness Land

    見てるだけでは不十分 文法知識を身に付けるには、「分かって、使って、感じ取る」の3つの段階を経ることが重要だと考えている。「分かる」とは言語知識を理解することである。文法は形態統語的な形式に関わる知識、意味に関わる知識、語用論的な文脈や場面に関わる知識の3つの側面から理解する必要がある。ただし、3つの側面すべてを理解してから「使う」の段階に行く場合と、どれか1つに特化した学習手順を踏み、それを3巡させて進めていく場合の2つのやり方が考えられる。次の「使う」とは理解した文法知識を実際の言語活動で使うことである。ここで最も効果的なのが「書く」という活動である。最近は入試の文法問題に対応するために「ライティング」の授業で文法問題を解かせることが私立高校を中心に一般的になっているが、来のライティングの授業の方がよほど文法力が付くのではないかというのが、「ライティンG」の授業を実際に担当して感じた

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  • 文化審議会答申について - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    「文学」と「言語」 文化審議会答申の中で国語科教育のあり方に関する言及もあり、そのなかで「文学」と「言語」の2分野に整理していく方向性が示唆されている。「文学」は情緒力の育成に主眼を置いたものとされ、「言語」は国語の運用能力の育成を主な目的とするものである。審議会のメンバーのひとりである藤原正彦氏の意向が反映されているのだろうか、早い段階では情緒力育成の「文学」のほうが言語能力育成の「言語」よりも優先的に扱われるべきとし、それを「発達段階に応じた国語教育」と称している。 だが、この場合「文学」での高度な鑑賞や味読がおろそかになるおそれがある。また、ごく初期の「文学」教育を読み聞かせによって行う場合、その題材をどのように選ぶのかといった問題がある。一方の「言語」にしても、これをどのように身につけていくのかという具体的な方法論までは答申には言及されていない。寺井(2009)は言語活動を通じて達

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  • 凡庸たり得ない不幸 - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    これはかつて予備校の教壇に立っていた経験を持つ哲学者、入不二基義氏が予備校講師について指摘したことである。大学受験予備校の講師はつねに、「高校の授業との差別化」の呪縛から逃れられないでいる。これが進むと「他の予備校講師との差別化」の呪縛に囚われることになる。こういう行使に限って「質論」を生徒に語ったりする。だが、質が語る講師によって変わることなどありえない。 高校の授業との差別化は容易であり、また困難でもある。一流の高校の一流の教師は受験対策をしているわけではなく、来の英語の授業をしていながら、結果的に受験対策もできているというふうになるものである。こうした先生の授業との差別化は生徒にとって有害な場合もあり、困難と言わざるを得ない。しかし、高校の授業はそういう授業ばかりではないから、差別化はたいていの場合は容易であるとも言えるのだ。 一方、差別化に批判的な予備校講師もいる。差別化は生

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  • 古典文法と古文理解(その4) - Born in the northern heart of Colorfulness Land

    英文理解と古文理解における文法の扱いの違い 英文理解における文法の扱いについては、「受験英語」が一定の貢献を果たしていると言って良い*1。だが、古文理解においてはどうであろうか。阪倉(1963:11)が「もともと文法なるものは、決して解釈のために整理され、組織立てられたものではなく、来別の目的を持つものであり、解釈に役立つというのはその応用的一面に過ぎない」というように、古典文法は学習文法としての体をなしていなかった。阪倉の指摘から45年が経過した。英語はこの間に変形文法を英文理解に援用する試みや、Jespersenらの知見を援用しながら旧来の学校文法を英文理解のために再構成する試みが見られた。古文ではどうなのか。受験古文の理論的基盤がどこにあるのかは、私自身が不勉強であるゆえ、はっきりと断言できない部分が多々ある。だが、「所詮は日語である」という甘えが古典文法を学習文法として整備する

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  • 古典文法と古文理解(その3) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    その1・その2からずいぶん間が空いていますが、この問題を再び取り上げます。 文法の体系性と有用性 「文法のための文法」という言い方がある。松隈(1958)によれば、それは文法をひとつの学問として捉えた体系的知識を指すようである。松隈も認めているように、文法の体系的指導そのものに問題があるわけではない。ただ古文理解に役立たなければ、古典文法の知識はその学習意義を持たないのではないかというのが松隈の主張である。高木(1997)のように古典教育を文学教育と語学教育とに分離分化させるべきだという主張もある。これは細切れの現代語訳に終始しがちな古典教育に対する反省から生まれたものである。しかし、外国語教育に携わってきた者から見ると、高木の主張は英語教育における構文派とパラリー派の対立と同じ構図をなしているような気がしてならない。いかなる言語であっても「読む」という行為に文法知識が関与することは明らか

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  • 学生時代のことなど - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    大分汚職に思う 不正な得点操作で合格した教員を解雇し、逆に操作によって不合格になった者を教員として採用するというのは合理的ではある。しかしそれとは別に、教員採用試験が試験として適切で妥当であるかどうかという問題がある。つまり、「どうもあの先生は使えないと思ったら得点操作で受かったんだ」というのならともかく、「すごくいい先生なのに、不正操作で採用されたからクビになっちゃうんだって」という状況もあり得るのではないかということである。 私は学生時代に、直観的ではあるが、「教師になるための勉強」と「教師としての勉強」とが別のものであるような気がしていた。教職課程での授業にしても、現場で教えるために必要な質的な部分と、採用試験で出る部分との間に、乖離があるような気がしていたのだ。もちろん、すべての都道府県市がそうであるとは言い切れない。しかし、採用プロセスを異にする私立学校の教員にも素晴らしい先生

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  • 文法についての雑感 - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    いまこのブログでは、日語の、文章理解/表現における文法知識の役割と、英文法のコア理論と同時進行でやっているところ。コア理論、というかCPN理論が語彙や文法の学習に与えた影響は大きいと思う。だが、同時にその難解さゆえに多くの教師や学習者に誤解されていることも多い。なかには曲解されたはずの教材や講座が、妙に学習者の人気を集めていたりもする。それに対して日語の文章表現についてはどうだろうか。そこで関与する文法知識は、旧来の学校文法の体系のままであるようだ。それでも母語だからということで、文章表現のために文法を教えたり学んだりしなくてもよいのではないかという雰囲気になっている。現実は母語であるということに甘えていられる状況ではない気がするのだが。 学問的なことがどうこうよりも、実践こそ大切と言う。だが、私がこのブログで書いていることは、学問ではない。私自身が教師として身につけようと思っている常

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  • 文章におけるレトリックとは何か(その1) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    言語過程説・コミュニケーション能力・レトリック 言語過程説というと詞辞理論の議論に向かうものと考えられがちだが、今回は格関係や陳述の話ではない。ここでは時枝(1941)が取り上げている「言語の存在条件」を問題にしたい。時枝は、言語が「誰(主体)かが、誰(場面)に、何物(素材)かについて語ること」(時枝1941:40)で成り立っていると考え、言語の成立条件として主体・場面・素材の3つを挙げている。主体とは話し手・書き手であり、素材とは話したり書いたりする内容である。これら2つの要素と比べて、場面については若干の説明が必要である。時枝の言う場面とは単なる場所という空間的な概念ではない。場面は場所に加えて、その場所に対する主体の態度、気分、感情をも含む概念である。この場面の中には聞き手や読み手も含まれることになる。つまり、どのような状況で、どのような相手に語るのかということについての主体的判断が

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  • 古典文法と古文理解(その2) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    古典文法の定義 そもそも、「古典文法」とは何であろうか。鈴木(1995)によれば、古典文法とは中学校や高校で扱われる古典語に関する文法であるという。ここで鈴木は「古典語に関する文法」と言っているが、これは古代日語の文法を基盤として確立された文章語の文法であると定義している。古代語というのは主に上代・中古の日語を指すが、これには概念上は当然、話し言葉と書き言葉が含まれる。こうして考えると、英文法と同様に古語の文法においても研究者レベルで扱われる文法体系と学習者レベルで触れることになる文法体系とは異なることがわかる。国語史的に分類すれば、古い方から順に上代語、中古語、中世語、近世語、近代語、現代語という区分が立てられる。区分が立てられるということは、それぞれに特色があるということでもある。しかしこれは研究上の立場である。学習文法としての古典文法は、現代語文法と対比される単一の体系である。す

    古典文法と古文理解(その2) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ
  • 2008-01-30

    英語のブログのはずなのに、なぜ日語なのか、しかもなぜ古文なのかと感じる方がいらっしゃると思います。これは大半の日人が体験する言語学習を見渡し、そのなかで英語学習について考えていこうとする意図があります。外国語を1言語(主に英語)しか学ばない人でも、国語教育は当然受けてきているわけです。国語学習と英語学習が互いに干渉しあうのではなく、たがいに相乗効果を上げるには、どうしたらよいのか。その一環でこのような記事を書いています。 古文理解における現代語訳の位置づけ 古文を古文のまま理解しろ、というような主張はあまり耳にしない。漢文であれば素読などのような活動もあるのだろうが、古文では事情が違うようである。つまり、古文の理解において現代語の介在は不可欠なものと一般に考えられているのである。しかし、現代語訳を古文理解のなかでどう位置づけるかということに関しては、さまざまな立場がある。 もっとも急進

    2008-01-30
  • 古典文法と古文理解(その1) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    古典文法の役割 古文の理解には古典文法の知識が必要であると一般に考えられている。金水(1997)は古典文法の役割について現代語文法と対比させながら次のように述べている。 学校文法に基づく古典解釈のメソッドが確立された結果、文法は完全に暗記の学問となってしまった。古典ではまだ学校文法が実効的に働くからいいのであるが、学校文法の現代語文法は実は古典文法を導入するための仮構された悪しき折衷と妥協の産物であり、辞書の品詞分類以外にはほとんど役に立たない。(金水1997:122) 金水の指摘から、古典文法は古文理解のために必要ということが暗黙の了解のようにも思えてくる。渡部(1981)も「古文の文法なら多少存在理由がわかる。「係り結び」などというものを知らないと訳せないこともある。」(2)と述べている。だが、この問題についてはっきりしていないことも多い。古典文法が古文理解のために必要だとするならば、

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  • 日本語が読めれば、英語も読めるのか - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    語と英語の文章構成 田中(1989)の副題には、「日語が読めれば英語が読める」と銘打ってある。伊藤(1995)は「文章の書き方に洋の東西でそんなに差があるはずはない」(113)という。この考え方を取れば、英語が読めるようになるには日語と英語の最小限の違いに習熟しさえすればよいということになる。ここでいう「最小限の違い」とは、語順の違いをはじめとする文文法の体系である。構文主義という考え方の根底には、おそらく語順の違いにさえ対処できれば日語話者が英語を読むことが可能になるはずだという、ナイーブな前提があるのだろう。だが、日語の文章と英語の文章の違いを生み出すのは語順だけではない。日語と英語で読むという行為に差があるわけではないという田中でさえ、文化の違いによって文章の構成の仕方が違うことを指摘している*1。 日語と英語の文章構成の違いを考えていくうえで重要なのは、段落の位置づ

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  • 閑話休題:なぜ日本語なのか - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    講師室でのよくある会話から 「英語以前に日語ができていない」ということをよく耳にする。はじめはこちらも同調して「まったくだ」とも思ったが、次第に考えが変わってきた。責任転嫁ではないかだと思ったからだ。日語を介さずに、すべて英語だけで授業をするならまだしも、受験指導では日語で授業をするのが一般的である。そうであれば、英語学習の基盤となる日語の知識を身につけされるのも、ある程度、英語講師の仕事ではないかと考えるようになった。 日語研究への関心 安藤(1983)は、「母語における言語的直観を他国語の勉強に利用しないのはばかげている」(325-326)と言っている。その安藤が日英語対照研究のために英語教師に紹介している書目は、佐久間鼎、三上章、時枝誠記、久野翮、柴谷方良などの著作であった。英語を教える日人が、教師・学習者の双方が母語とする日語に関心を持つのは当然であり、日語の研究書

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  • 脱活用論(その3) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    宮田幸一『日語文法の輪郭』 宮田幸一といえば、英語を教えている人であればその名を知っている人が多いであろう。『教壇の英文法』(宮田1970)は、英語教師必携の書のひとつであると思う。その宮田(1970)を開いてみると、次のようなことが書いてある。 「私は若いころから、英文法の総合的な研究をして、それを著書の形にして世に出すことを究極の目的とした。しかし、視野を広くするため、初めは英文法には着手せず、言語学を読んだり、朝鮮語やギリシャ語やサンスクリット語を学んだりしていた。サンスクリット語は、印度学研究所に4年間も通ってこれを学習し、仏教の経典を読むまでになった。また一方、日語の研究にも従事し、日語のアクセントについていくつかの論文を書いたり、日語の文法に関するを書いたりした。」(宮田1970ix-x) つまり、英語の研究・教授を専門としつつも、日語の研究にも携わっていたとい

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  • 脱活用論(その2) - 持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

    田丸卓郎『ローマ字文の研究』*1 日語をローマ字で表記するだけなのに、なぜ文法が問題になるのかということを疑問に思う人もいるかもしれない。ふだんの我々の生活では、自分の住所や名前以外のことをローマ字で表記することがないが、もしまとまった文章をローマ字で書こうとするならば、ローマ字(≒アルファベット)を使う日常的に使う言語の場合と同様に分かち書きが必要となる。このため、「語の認定」という、古くから国学者・国語学者・日語学者が考察してきた問題を避けることができないのだ。田丸もまた、ローマ字表記のために、独自の文法観を持つに至ったと言える。 田丸は動詞や形容詞の語形を「切れる形」「続く形」「条件の形」の3つに大きく分けている。「「切れる形」は、断定を表す一般的な形(見る・見た)、推量(見よう・見たろう)、命令(見い・見ろ)の3つのカテゴリーを設け、命令以外はさらに現在と過去に分けている。「続

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