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ブックマーク / yeemar.seesaa.net (20)

  • 「汚名挽回」への違和感に答える

    ■はじめに 2021年10月31日にクサナギさんが「note」で「汚名挽回は正しい説再考」という文章を書いています。その中で、「汚名挽回」という表現を誤用ではないとする説明の〈論理的整合性〉と〈科学的妥当性〉が論じられています。 議論の中心となっているのは、私(飯間)が『文藝春秋』2021年11月号に書いた「日語探偵」第63回の「汚名挽回の理屈 学問的にほぼ解明済み」という文章です。クサナギさんはこの〈扇動的なタイトルに正直仰け反った〉と述べ、私のタイトルのつけ方に問題があったことを指摘しています。さらに〈Twitter上の発言や雑誌コラムで独善的に「解明済み」を宣言するのは科学的妥当性を欠いているとしか言いようがない〉と繰り返しており、このタイトルが批判的に見られたことがよく分かりました。 私のタイトルのつけ方が「扇動的」という批判に関しては、率直に反省したいと思います。断定調で立場を

  • 「人は見た目」についての誤解

    『人は見た目が9割』(竹内一郎著、新潮新書)というが評判になっていると聞きます。このの実際の内容はともかく、書名が一人歩きしているのではないかと、私は危惧を感じています。 実を言うと、私はまだこのを読んでおらず、書評を行う資格はありません。ただ、タイトルが衝撃的であるため、内容のいかんにかかわらず、「そうか、人は見た目が9割であって、ことばの重要度は1割にしかすぎないのか」と誤解する人が多いだろうということについては、一言しておいていいのではないかと思います。 そう誤解する人がいる証拠はあるのか、と問われれば、「四国新聞」2006.01.06 p.1の「一日一言」欄を挙げましょう。ここにはこうあります。見た目は重要だ。米国の心理学者アルバート・マレービアンの実験によると、人が他人から受け取る情報のうち、顔の表情が55%、声質や大きさなどが38%をそれぞれ占めるのに、話す言葉の内容は7

    「人は見た目」についての誤解
  • 「どうも!にほんご講座です。」の冒険

    ■私で務まるのか? 2011年4月から半年間、NHK Eテレの「どうも!にほんご講座です。」の講師を務めました。外国人学習者のための日語講座です。放送が土曜日の午前5時5分から、再放送が翌週金曜日深夜の12時半からという、あまり視聴率の見込めない放送時間帯でした。ただ、それだけに冒険もできました。桜金造さん扮するそば屋の主人とその一家が巻き起こす小事件を扱いながら、日の古いコントのフレーズや、芸能人の名言などを紹介するという、なんとも変わった番組が誕生しました。放送がもう少しで終わるのを期に、この番組を総括しておきます。 最初、講師の話をいただいたとき、「私で務まるのか」と驚きました。私は、日語研究者、国語辞典編纂者であって、日教育の専門家ではありません。大学で外国人学生対象の日語クラスを持ってはいますが、それは上級者を対象にしたものです。初級・中級者といった、外国語を学ぶ途

    「どうも!にほんご講座です。」の冒険
  • ○×式のことば報道はよくない ――「間が持てない」と「間が持たない」

    文化庁の平成22年度「国語に関する世論調査」の結果が公表されました。この調査については、「いったいどれほどの税金をつぎこんでいるのだろう」という個人的な疑念はありますが、それは置いておきます。ことばの変化や、人々の意識の変化について、有益な情報が含まれていることは確かです。ところが、メディアは、これを単なる「正しいことば遣い調査」ととらえているふしがあります。 調査には、〈来の言い方〉と、新しい言い方のどちらを使うか、という設問はありますが、「こちらが正しい言い方」とはどこにも書いてありません。価値判断は持ちこまずに、ことばの変化を調べています。それが、ニュースでは、「正しい言い方をしている人何パーセント」などと表現されます。調査の趣旨が単純化されて、「○×クイズ」になってしまうのです。 調査項目のうち、「間が持てない」「間が持たない」を取り上げましょう。これは、どちらが誤用とも言いがた

    ○×式のことば報道はよくない ――「間が持てない」と「間が持たない」
  • 「安くで」は関西・九州のことば

    「安くで買う」(安い値段で買う)という言い方を筒井康隆氏が多用していることについては、「執筆再開の筒井作品」で触れました。この言い方について、「めずらしい言い回し」と書いたとおりで、東京ではあまり耳にしません。 まれに、耳にすることはあります。私は大学院時代に、神奈川県出身の大学院生が「安くで」を使ったのを聞いたことがあります。「あなたのことばは、どこの地方のものですか」と聞くと、地元神奈川だということでした(その時周りにいた人は「安くて」かと思って聞いていた、とのことでした)。 しかし、どちらかというと、西のほうのことばでしょう。新聞にはあまり出ませんが、大阪版の紙面に次の例があります。 傘も最近は安くで手に入るようになりましたが、小さい頃は、傘を一買ってもらうために、どれほどの手段を使ったことでしょう。〔兼保泰三・おしゃれむしぼしばなし〕(「産経新聞」〔大阪夕刊〕2003.06.03

    「安くで」は関西・九州のことば
  • 「じゃないですか」の先祖

    平成9年度(1997年度)の「国語に関する世論調査」によれば、初対面の人に「私ってコーヒーが好きじゃないですか」という言い方を「唐突」だと思う人は約半数にのぼるということです。「最近、このような『~じゃないですか』の用法が多くて困る」という声は多く聞かれます。 「最近」と書きましたが、私は、こういった語法が最近のものかどうか、疑っています。 たしかに、話し手がコーヒーが好きかどうかを知らない聞き手にとって、「コーヒーが好きじゃないですか」と言われても、「そんなことは知らない」と言うしかないでしょう。「まったく、へんな言い方がはやる。日語はどうなってしまうのだろう」というところまで考えが発展するとしても無理はありません。 しかし、相手の知らないことを、知っているように表現する言い方は、ずいぶん昔からあったようです。 森鴎外の小説「身上話」(1910年発表)の中で、若い女中が次のように言うと

    「じゃないですか」の先祖
  • 夏目漱石も「さ入れことば」

    フジテレビ「SMAP×SMAP」で、中居正広さんが、えー当ビストロには一切メニューはございません。好きな料理を言っていただければ何でも作らさせてもらいます。(1999.07.12 22:00 放送より)と言うのは、いわゆる「さ入れことば」です。今はどう言っているか知りません。これをメモした7年前には言っていたのです。「作らせてもらいます」と言えばよいところに「さ」を入れているので、「さ入れことば」と言います。 ときどき誤解をする人がいるので念を押しておくと、「作る」「読む」「やる」のような五段活用動詞には「せる」が、「試みる」「べる」「投げる」のような一段活用動詞には「させる」がつくのが伝統的です。「作る」に「させる」がつくのは新しい接続のしかたです。 もっとも、この「さ入れことば」は、鎌倉時代の文章にも見られるということは、以前「鎌倉時代の「さ入れことば」」に書きました。「東海道中膝栗

    夏目漱石も「さ入れことば」
  • 笹原宏之『訓読みのはなし』を読む

    漢字には何千年の歴史がありますが、時代によって、また地域によって変転をきわめてきました。けっして、使われ方の固定した、万古不易の文字ではありませんでした。日では、漢字は日語の一部として用いられ、中国とはまったく異なった展開を見せました。これは、笹原宏之氏が一貫して追究し、かつ証明してきたところです。 今のコンピュータ時代にあっても、日の漢字は変化し続けています。私自身も、ほうぼうでめずらしい漢字にしばしば出会って、そのたびに驚きます(「文字のスナップ」参照)。とはいえ、以前に比べれば、私たちはペンを持つことが少なくなり、書いた文字を人に見せる機会も減りました。まして、新しい漢字や漢字字体を生み出して流通させることもむずかしくなりました。私たちの書写生活の大部分は、規格化されたコンピュータ文字に支配され、画一化に向かっているとみることもできます。少なくとも、私はそうだろうと思っていまし

    笹原宏之『訓読みのはなし』を読む
  • 「号泣」の「誤用」成立まで

    三省堂辞書サイトでの連載に書いたばかりのことですが、『三省堂国語辞典』第6版に「号泣」の「誤用」の意味が入りました。いわく、(2)〔あやまって〕大いに なみだを流すこと。この用法の成立について、上の連載の文章に例を補ったりして、もう少し詳しく記してみます。 「号」は、「号令」「怒号」で分かるとおり、「さけぶ」という意味です。でも、大声をあげず、いわば「滂沱の涙を流す」とでもいうべき場合に使われているというのが、上の語釈の趣旨です。 声を上げない「号泣」については、早くは、橋五郎監修・読売新聞新日語取材班『乱れているか? テレビの言葉』(中公新書ラクレ 2004)p.26で触れられています(元の新聞記事は2003.10.09 夕刊 p.18)。ワイドショーなどでは、過剰な表現のタイトルを多用することが多い。「遺族号泣」「アジト潜入」「極秘入籍発覚」――。大げさな言葉で視聴者の目を引こうと

    「号泣」の「誤用」成立まで
  • 「イケメン」検証はありがたい

    TBSのバラエティ番組「ご起源さん!」(2008.03.21 18:55)を見ました。ことばや物の起源を探る番組です。最初に、「イケメン」の語源は何かが取り上げられました。この部分では、私の電話インタビューも流れました。 番組の結論を要約します――『広辞苑』第6版で、この語は「いけ面」の表記で載り、「いけている」の略と「面」をあわせた俗語かと説かれる。しかし、「朝日新聞」2008.01.16でも取り上げられたように、この説は不十分である。そこで語源について調査を開始した。語の発祥について、ゲイ雑誌「バディ」からとの説があったが、編集部の証言で否定された。最終的には、ギャル雑誌「エッグ」(egg)の元編集者・矢野智子さんが初めて使ったとされ、人もインタビューで認めた。1999.01の誌面で「ねえ、ひろゆきクン、前回のイケメン見てどう思った?」とある。これは「クリクリ矢ぬの イケてるメンズ」

    「イケメン」検証はありがたい
  • 「誰・頃」をかなで書く私―常用漢字雑談―

    前回、常用漢字表の改定に関して、「趣旨はまったく賛成」と書きました。社会生活で目にする漢字が増えている現在、漢字表を拡大するのは当然だと思います。ただし、「理解漢字の表」(読めるだけでよい漢字の表)、「書写漢字の表」(書けるようにする漢字の表)の2つに分けて、新追加漢字はすべて理解漢字とするのがよいと述べました。 理解漢字といっても、だれもが理解するだけで書かなければ、その漢字は消えてなくなってしまいます。ここで言う理解漢字とは、学校教育で書かせなくてよく(書きたい人は書いてもよい)、字体・字形を採点対象にしないということです。パソコンや携帯メールでは当然使ってよいということです。 たとえば、「誰」「頃」という字は、現在の常用漢字表には入っていませんが、社会での使用頻度としては上位に来ています(国立国語研究所の『現代雑誌200万字言語調査』など)。新常用漢字表では、おそらく追加候補になるで

    「誰・頃」をかなで書く私―常用漢字雑談―
  • 新常用漢字表は字体変えないで

    常用漢字表の改定作業が進行中だと聞きます。文化審議会の資料や、漢字に詳しい人々のウェブサイトなどを見ると、もう主な論点はあらかた出尽くしていて、門外漢が口を出す余地はなさそうです〔7月15日追記。漢字専門でなくとも日語研究者であるからには、「門外漢」というのは無責任なので、取り消します〕。とはいえ、日語で生活する個人として、自分の使う漢字が今後どう決められるのか、不安を感じる点があるのも事実です。ここに素朴な意見を書いておく意味もあるでしょう。 現在の常用漢字表と、社会の漢字使用の実態がかけ離れてきた。これが今回の改定の理由だと理解しています。つまり、漢字表を現実の社会に合わせようということです。子ども(社会)の体形が変わってきたから、それに合わせて服(漢字表)を替えようということですね。この趣旨はまったく賛成です。そこで、関係各位にお願いしたいのは、これと逆に、社会のほうを漢字表に合

    新常用漢字表は字体変えないで
  • きょうのことばメモ

    ■はじめに 2021年10月31日にクサナギさんが「note」で「汚名挽回は正しい説再考」という文章を書いています。その中で、「汚名挽回」という表現を誤用ではないとする説明の〈論理的整合性〉と〈科学的妥当性〉が論じられています。 議論の中心となっているのは、私(飯間)が『文藝春秋』2021年11月号に書いた「日語探偵」第63回の「汚名挽回の理屈 学問的にほぼ解明済み」という文章です。クサナギさんはこの〈扇動的なタイトルに正直仰け反った〉と述べ、私のタイトルのつけ方に問題があったことを指摘しています。さらに〈Twitter上の発言や雑誌コラムで独善的に「解明済み」を宣言するのは科学的妥当性を欠いているとしか言いようがない〉と繰り返しており、このタイトルが批判的に見られたことがよく分かりました。 私のタイトルのつけ方が「扇動的」という批判に関しては、率直に反省したいと思います。断定調で立場を

    きょうのことばメモ
  • 使うべし、「とんでもございません」

    新宿の地下街で書店に寄った際(3月7日)、『頭がいい人の敬語の使い方』(郷陽二著、日文芸社 2006)というを目にしました。いくつも重ねてあったので、売れているものとみえます。以前に出たなのに今になって気づいたわけは、帯に次のように大書してあったからです。使ってませんか!?/「とんでも/ございません」「おや、自分は『とんでもございません』という言い方を使っているが、誤りなのだろうか?」と思った人が手に取ることをねらっているものとみえます。 この「とんでもございません」は、たしかに、よく敬語の誤りの例として出されるものです。それで、帯で訴えるのにふさわしいと出版社は判断したのでしょう。インターネット書店で確認したかぎりでは(買わなかったので)、「「とんでもございません」はとんでもない誤用」という章または節もあるようです。 筆者の文章の細かいニュアンスを知らずにいうのも気が引けますが、

    使うべし、「とんでもございません」
  • 昭和を騒がせた漢字たち

    円満字二郎著『昭和を騒がせた漢字たち』(吉川弘文館 2007)がベストセラーになっています。すでに的確な書評はいくつも出ていますが、好きななので、遅ればせながら、感想めいたものを書いておきます。 このは、題名から分かるとおり、昭和(戦後)の歴史と漢字との関わりを、いくつかの具体的な事件を中心にして論じるものです。私自身、ことばや文字が好きなのは当然として、戦後の歴史にもオタク的な興味があり、NHK「THE NEWS」(戦後のニュースハイライトが1年1巻にまとまっている)などというビデオを見ては楽しんでいるので、書はいわば「ツボにはまった」という感じです。一気に読んでしまいました。 書に出て来る「漢字にまつわる事件」は、知らないものが多くありました。たとえば、戦後いったん「郵政省」になった役所を「逓信省」に戻そうという動きがあったこと(その中心人物は田中角栄)。専売公社のたばこ「おお

    昭和を騒がせた漢字たち
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/03/06
    「戦後の人々の漢字意識には、2回の大きな変化が訪れた」
  • 見坊先生はなぜ「来る」を集めたか

    『三省堂国語辞典』をほぼ独力で編んだ見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)氏は、辞書作りのために、膨大な用例のカードを作成しました。それは、死去の直前に刊行された第4版の段階で145万枚に達した(「序文」)といいます。 じつに超人的な仕事です。用例採集は生涯で「五十年に及び」(「序文」)ということですから、単純計算で、1年間に2万から3万枚のカードを作成したことになります。3万を365日で割ると80枚以上になります。事務的にカードを作るだけなら比較的やさしいけれども、まずは、カードに書きこむべき、めずらしいことばを探す必要があります。それを1語探し出すのにもずいぶん時間がかかるはずですから、それを毎日80語となると、寝ても覚めても、用例を探していなければなりません。 しかし、ここで不思議なことがあります。見坊氏の作った辞書の収録語数は7万3000語(『三省堂国語辞典』第4版)です。彼が20代で作っ

    見坊先生はなぜ「来る」を集めたか
  • あばよ、しばよ

    前回、「さようなら」の意味を説明するにあたって、「じつにかんたんなことで、わざわざ調べるまでもないこと」と述べました。しかし、同じように別れの時に使う「あばよ」の語源となると、多少難しくなります。 まずは、同じような場合に使われる、音の似たことばがないかどうか、考えてみます。そうすると、「さらばよ」ということばが思いつきます。「さらば」「さらばよ」は、古くからあることばです。現代語で言えば「そうであるならば」「そうであるならばねぇ」ということです。「じゃあ」「それなら」「さようなら」と、同じ発想のことばです。 この「さらばよ」の幼児語が「あばよ」だったのではないか。そう思って、『日国語大辞典』を見ると、まさしく、そのように書いてありました。〈さらばをまねた幼児語あば、あばあばの「あば」に終助詞「よ」が付いたもの〉ということです。 ところが、よくよく調べると、これには異説があります。方言学

    あばよ、しばよ
  • 「くらい」の清濁

    あなたは「宿題くらい自分でやりなさい」と言うでしょうか。それとも、「宿題ぐらい自分でやりなさい」と言うでしょうか。つまり、「くらい」と清(す)むか、「ぐらい」と濁るかという問題です。少々、立ち止まって考えてください。 今の問題の答えをよく考えた上で、さらに、次の2つの場合を考えてください。「そのくらい自分でやりなさい」と言うか、「そのぐらい自分でやりなさい」と言うか。それから、「宿題をするくらいなら、家の手伝いをしたほうがまし」と言うか、「宿題をするぐらいなら、家の手伝いをしたほうがまし」と言うか。 じつは、この3つの場合には、来、清濁の区別があります。自省してみて、「なるほど、自分ははっきり区別している」と気がつく人は、分析力にたけた人でしょう(どこかで教わったのでなければ)。どういう区別だかは、あとで記します。私はというと、このうちのどの場合も、清むか濁るか、考え出すと分からなくなり

    「くらい」の清濁
  • ゲシュタルト崩壊と漢字の書き取り

    夏目漱石の「門」(1909年発表)は、駆け落ちしたために世間から見放され、ちょっと精神的にまいりかけた男と、彼に従って静かに暮らすの物語です。冒頭近くに、夫が妙なことを言う場面があります。「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。 「何故{なぜ}」 「何故って、幾何{いくら}容易{やさし}い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日{こんにち}の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違った様な気がする。仕舞には見れば見る程今{こん}らしくなくなって来る。――御前{おまい}そんな事を経験した事はないかい」 (新潮文庫 1948年発行 1978年62刷改版 1981年69刷 p.7)「今」という字を見ていると、だんだん「今」に見えなくなってくるというのです。はもちろん、「まさか」と否定し、「貴方どうかしていらっしゃる

    ゲシュタルト崩壊と漢字の書き取り
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2006/02/24
    「われわれは、「松」という字を「木」「八」「厶」などの部分の合計として考えているのではなく、全体でひとつの形態(ゲシュタルト)として捉えている」
  • ホームページかWebページか

    私が大学で担当する授業のうち、いくつかは、コンピュータ教室の並ぶ建物で行われています。この建物で行われる授業は、すべてコンピュータとかインターネットとかを用いるという点で共通しています。 私はそこで、コミュニケーションを主題にした授業を行っていますが、その中では、ホームページを大いに活用します。学生も自分でホームページを作ります。 さて、この「ホームページ」という呼称を、この部署では「Webページ」と呼び、「統一的に学生に教育」している(どうやら最近そうなった)ということです。そこで、次年度のシラバス(講義要項)の中に「ホームページ」とあるものは、機械的に「Webページ」と変換したいがよいかという確認の連絡をもらいました(2006.02初旬)。 統一的に教育している、という話と、今年度まで各授業で呼称に不統一があったという事実は両立しないような気がしますが、まあいいでしょう。今まで「ホーム

    ホームページかWebページか
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2006/02/14
    「ことばは実物とイコールではない」
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