漱石が死に臨む時を経過し、また大自然を前にして感得している安らぎの境地は、漢詩の伝統から多くを得ているだろう。「詩僧」という語で自らを捉えているのも納得のいくところだ。だが、また儒教的な天や道教的な無、あるいは仏教的な空からも影響を受けたものだろう。死を前にした時期の漱石の「天」は、近代人の「魂のふるさと」の漱石的な形とも言えるだろう。それは漱石が自ら切り開いた境地であり、死生観という枠組みで捉えることもできるものだ。 漱石から現代まで 漱石から現代に至るまで、このような「その人自身の死生観」がさまざまに表出されてきた。共有されている死生観の枠組みからいったん切り離された個々人が、それぞれにつかみ取る、あるいは探り続けるものとしての死生観である。これが近代における死生観の特徴である。拙著『日本人の死生観を読む』でもそのような死生観について宮沢賢治、折口信夫、吉田満、岸本英夫、高見順などを例
漱石が死に臨む時を経過し、また大自然を前にして感得している安らぎの境地は、漢詩の伝統から多くを得ているだろう。「詩僧」という語で自らを捉えているのも納得のいくところだ。だが、また儒教的な天や道教的な無、あるいは仏教的な空からも影響を受けたものだろう。死を前にした時期の漱石の「天」は、近代人の「魂のふるさと」の漱石的な形とも言えるだろう。それは漱石が自ら切り開いた境地であり、死生観という枠組みで捉えることもできるものだ。 漱石から現代まで 漱石から現代に至るまで、このような「その人自身の死生観」がさまざまに表出されてきた。共有されている死生観の枠組みからいったん切り離された個々人が、それぞれにつかみ取る、あるいは探り続けるものとしての死生観である。これが近代における死生観の特徴である。拙著『日本人の死生観を読む』でもそのような死生観について宮沢賢治、折口信夫、吉田満、岸本英夫、高見順などを例
漱石が死に臨む時を経過し、また大自然を前にして感得している安らぎの境地は、漢詩の伝統から多くを得ているだろう。「詩僧」という語で自らを捉えているのも納得のいくところだ。だが、また儒教的な天や道教的な無、あるいは仏教的な空からも影響を受けたものだろう。死を前にした時期の漱石の「天」は、近代人の「魂のふるさと」の漱石的な形とも言えるだろう。それは漱石が自ら切り開いた境地であり、死生観という枠組みで捉えることもできるものだ。 漱石から現代まで 漱石から現代に至るまで、このような「その人自身の死生観」がさまざまに表出されてきた。共有されている死生観の枠組みからいったん切り離された個々人が、それぞれにつかみ取る、あるいは探り続けるものとしての死生観である。これが近代における死生観の特徴である。拙著『日本人の死生観を読む』でもそのような死生観について宮沢賢治、折口信夫、吉田満、岸本英夫、高見順などを例
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