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ブックマーク / finalvent.hatenadiary.org (45)

  • ちとまいったかな - finalventの日記

    ⇒404 Blog Not Found:選民思想2.0または少衆主義 逆に最も唾棄すべきは、他の船が気にわないからといって沈めてしまうという行動であろう。これに比べればまだ選民思想というのは罪が軽い。しかし実際のところ、「民主」主義の動きにおいては、船を大きくする代わりに小舟を沈めるということが多々見られる。 その意味において、民主主義というのは時に選民思想以上に危険なのだということは、民主主義の旗をかかげる船に乗っている人は皆自覚しておく必要があるように思える。 こういうと嫌がられるかもしれないけど、「民主主義」というのがわかっているのだろうかとちと疑問に思う。 じゃ、民主主義ってなんなのさと、ウィキペディアを覗くと ⇒民主主義 - Wikipedia 民主主義(みんしゅしゅぎ)とは、個人の人権(自由・平等・参政権など)を重んじながら、多数による意思をもって物事を決める原則をいう。法律

    ちとまいったかな - finalventの日記
  • 国家と共同幻想と法と一般意志 - finalventの日記

    ま、たいしたこと書くわけでもないが。メモ。 吉的にいえば、共同幻想というのは発生してしまうもの。宗教と同じ。そしてそれが国家ということで、国家というのは宗教と同じと言ってよいことになる。 他方、いわゆる西洋的な民主主義の考えでは、国家は国民から貸借関係的に疎外されるのだが、それは結果論というか後付的な説明なのか? 国家の機能は一つには、社会から個人=市民を守ること。というか、個人=市民は国家がなければ社会に抹殺されかねない。その個人=市民というのは、むしろ、国家と共時的に発生しているとしかいえない。 超国家において市民は比喩以上には成立しない。つまり、世界市民的な概念は成立していない。その希求があるにせよ、国家から超国家への移行はその統合なり基盤としてはできていない。 逆の方向からいえば、超越的な正義、というものは成立しづらい。 ただ、国家の機能は、その内部の国民=市民からは、正義の希求

    国家と共同幻想と法と一般意志 - finalventの日記
  • ちょっとだけ -ocracyと-ism - finalventの日記

    ⇒404 Blog Not Found:民主主義とかけてWeb2.0ととく 批判とかにとらないでくださいね。そういう話ではないので。 現時点における私の「民主主義」の解釈は、「民主主義そのものを解釈する権利が、全ての民に存在するとする主義」というものである。私にとって「主」というのは、「模型を作り直す権利を持つもの」という意味なのだ。 ご主張部分は、申し訳ない、さておき。 この考え方と、考え方の基礎の言葉の扱いについてだけど。 「民主主義」という「主義」の日語による議論だけど。 この点は、つまり、民主主義の「主義」の訳語から、原語はどうなんだというのはウィキペディアの民主主義の項目でも揺れていたけど。 ⇒民主主義 - Wikipedia 哲学的には、デモクラシー(democracy)の日語訳で、君主に対応する概念(対概念)として「民衆」という概念を設け、人民ないしは国民が、支配の正統性

    ちょっとだけ -ocracyと-ism - finalventの日記
  • 植草先生のことはわからんが その2 - finalventの日記

    承前⇒finalventの日記 - 植草先生のことはわからんが 昨晩、そして今朝方、また少し考えた。 死の乗り越えの欲望、というのだとして(バタイユ=ヘーゲル的)、少し違うか、と。 たとえば、私の前に若い女がいるとする(まあかつていたが)。 そこに手を出すことは容易ではない、というときの障壁の質の問題ではないか。 一般的には、その障壁は、女の側の意志の問題だとされる。悪い言い方をすると、そこで女が、意志と身体に分けられれば、商談のようなふうにして障壁を越えることができる。あるいは、愛情とか。たぶん、愛情とは別の商談のような契約性を持つとしても。 ところが。 たとえば痴漢という場合、そこに対象との女との間の障壁は、基的に、社会なり、慣習なり、掟なりであって、現代世界では、法=国家=共同幻想だろう。 つまり、性的な欲望=快感、あるいは、性的な欲望=二項関係というのではなく、そこには質的な三

    植草先生のことはわからんが その2 - finalventの日記
  • 植草先生のことはわからんが - finalventの日記

    なんとかくああいう問題もまた言及しないがよかろうと思うようになった、冤罪とかそうではないとかいろいろあるとして。 前回は刑が確定したので、市民社会的には、彼は痴漢。しかし、その処罰を受けたので、今はそうだというわけでもない。 今回も刑が確定したら、社会的な判定は下る。 ま、それはそれとして。 植草先生と限らずだが。 世に痴漢というか多い。お変態さんも多い。フロイト的に言えば幼児の原型は多形倒錯的なものであるからむしろそれがどう、生殖器愛に陶冶されるかということではあろうが。理論もどうでもよいとして。 そういう欲望が存在を覆うというのが、何かしら、私にはわからない。 たとえばある痴漢がいて若い女の尻に触れたいとする。が、そこで私は多分誤解しているのだ。尻触るくらいならカネ出して触らしてくれる女で我慢せいとか思うのは誤解なのだろう。快楽、快感が問題ではないのだろう。 そうではない(許されない)

    植草先生のことはわからんが - finalventの日記