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ブックマーク / yeuxqui.hatenablog.com (2)

  • ロックの - yeuxquiのブログ

    人身personの所有という発想は、やはりこの人は哲学者である前に、医者なのだなあと思う。彼は、そのさい、野山で拾い集めた林檎や捕獲した野生の動物たちを吸収同化する比喩に訴えており、じっさい同時代の仏訳者もそれをおもわず身体の所有corps physiqueと訳したりしている(ただし引っ越し準備のために手元に現物がなくてうろ覚え)。つまり同時代のひとたちにも現代の僕らが持つような「身体body」というイメージを抱かせたようなのだ。 ただしそのイメージが私物、私有財産へと労働を通じて拡大されていくとき、そしてそれが「自由」ということの根拠とされるとき、そのとき自由は、「わたし」たちの意のままになる移転や譲渡可能alienableなものではなく、一種の運命のような何ものかに見えてくる。 徳育において問題とされることが近代社会において、とりあえず労働と政治参加であるとして、ロックにとって、前者の

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  • ダニエル・ベルは - yeuxquiのブログ

    マルクス主義の政治的側面についての徹底的な批判者であると考えられてきたし、事実そうであったのは、アメリカの社会主義運動の失墜を分析するなかで、たとえばウェーバーの責任倫理と心情倫理という対立軸でかんがえると、マルクス主義にせよ社会主義にせよ、それが典型的に後者の側に属するものであって、そのかぎりで社会の内部での具体的問題の漸進的解決を志向するよりも、世界についての変革を優先する、millenarianの後継者であるとする批判が、すくなくとも当時のアメリカの労働運動社会主義者や共産主義者に限って考えれば一定程度妥当するものだったからだろう。 * だがいっぽうでマルクス主義的な経済分析の限界を指摘する際に彼が依拠したのは、いわゆる脱工業化、第二次産業から、第三次産業(サーヴィス産業であり、知識集約型産業でもある)への転換という産業構造といってもいいし、サプライサイドといってもいいが、その変化に

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