人身personの所有という発想は、やはりこの人は哲学者である前に、医者なのだなあと思う。彼は、そのさい、野山で拾い集めた林檎や捕獲した野生の動物たちを吸収同化する比喩に訴えており、じっさい同時代の仏訳者もそれをおもわず身体の所有corps physiqueと訳したりしている(ただし引っ越し準備のために手元に現物がなくてうろ覚え)。つまり同時代のひとたちにも現代の僕らが持つような「身体body」というイメージを抱かせたようなのだ。 ただしそのイメージが私物、私有財産へと労働を通じて拡大されていくとき、そしてそれが「自由」ということの根拠とされるとき、そのとき自由は、「わたし」たちの意のままになる移転や譲渡可能alienableなものではなく、一種の運命のような何ものかに見えてくる。 徳育において問題とされることが近代社会において、とりあえず労働と政治参加であるとして、ロックにとって、前者の