形容する言葉が見つからないような本である。 本好きの人には、「まずこれを読め」とすすめたい。そう言っても、おいそれと読み通せるような代物ではないのだが、とりあえず当たってみろとも言いたい。 本を読む習慣があまりない人や、何かの事情で読めない、読みにくい人には、この本に書いてあること、またこの本を読んだことの意味をどう伝えればいいものか、かんがえてしまう。 そんな本である。 私的所有論 作者: 立岩真也出版社/メーカー: 勁草書房発売日: 1997/09/01メディア: 単行本購入: 3人 クリック: 33回この商品を含むブログ (42件) を見る以下は、ひとつの角度から、本書のごく限定された部分、側面だけを紹介する文章。 導入 1997年に出版された本書から7年後に出された『自由の平等』という本の冒頭で、立岩真也は自分の分配についての主張を『働ける人が働き、必要な人がとる』と簡潔に要約して
1970年代前半の青い芝の会やウーマンリブのことをちょこっと調べていて、田中美津が繰り返し口にする「子殺し」のことがずっとひっかかっていた。当時の優性保護法改悪への対抗運動の文脈でも、田中の「子殺し」への独特の拘泥は、賛否両論を招いたらしい。もともとは横浜の母親による障害児殺しがあり、その母親に対する同情と減刑キャンペーンがあり、青い芝等の障害者団体がこれに猛抗議して、中絶の権利を主張したリブの人々も複雑なポジションに置かれることになる。胎児の中絶と障害児殺しはもちろん同じ問題ではないが、連続してもいる。リベラリズム/パーソン論の文脈で言えば(煩雑な議論は飛ばす)、ある時期以前の胎児は「人格」を持たない、だからそれを廃棄しても「殺人」には当らない、とされる(例えば脂肪の吸引等と同じ、となる)。中絶の権利、あるいは「産む産まないは私の権利」も、同様のロジックで正当化しようと思えば正当化できる
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