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ブックマーク / sugitasyunsuke.hatenablog.com (7)

  • 「できる」と「できない」は対立しない。 - sugitasyunsukeの日記

    続きを、少し。 ……しかし、「姥捨山問題」という言葉から思い浮かべるイメージがそれぞれ違うので、難しいですね。 以下、単なるメモ。とりあえず頭を整理。 「決定」の水準だけで考える。「条件」(「行動障害の子どもを入所施設に入れるか」「障害のある子どもを産むか」「200円でおやつを買うかアフガンに寄付するか」等)はカッコに入れる。 そもそも「できる」(1)と「できない」(2)は、「できる/できない」という二項対立の関係にない。 「できる」(1)とは、「する」(2・1)か「しない」(2・2)か、その人が自己決定できる状態にあることを、前提におく。 つまり選択肢(2・1、2・2)がその人には与えられている。 これに対し、「できない」状態には、それらの選択肢自体が与えられていない。前エントリーのコメント欄でこう書いた。《例えば当に苦しんで行動障害のある子を入所施設に入れる決断をした母親がいるとしま

    「できる」と「できない」は対立しない。 - sugitasyunsukeの日記
  • 優生学・家族負担・尊厳死 - sugitasyunsukeの日記

    単なるメモです。 以下を読んだ。 ◆堀田義太郎[2004]「障害の政治経済学が提起する問題」、『医学哲学・医学倫理』、第22号、pp. 37−46 ◆堀田義太郎[200508]「遺伝子介入とインクルージョンの問い」、『障害学研究』第一号、2005年8月、障害学会 ◆堀田義太郎[2006]「研究利用目的のヒト胚作成と卵子提供をめぐる倫理的問題」、『生命倫理』17号、2006年、日生命倫理学会 ◆堀田義太郎[200610]「生体間臓器提供の倫理問題――自発性への問い」、『医学哲学・医学倫理』第24号、2006年10月、pp. 31-41 ◆堀田義太郎[200612]「決定不可能なものの倫理――「死の自己決定」をめぐって」、→『現代思想』[200612]、青土社 ◆堀田義太郎[200703]「優生学とジェンダー――リベラリズム・家族・ケア」、→大越+伊桁編[2007]『脱暴力へのマトリックス』

    優生学・家族負担・尊厳死 - sugitasyunsukeの日記
  • いちヘルパー

    知人から赤木智弘「「丸山真男」をひっぱたきたい」のコピーを郵送してもらった。昨日の夜中に読んだ。予想外に胸のつまるものがあり、自分でも意外だった。 赤木氏は親元にパラサイトして深夜バイトを続ける単身の31歳フリーター。 《夜遅くにバイト先に行って、それから8時間ロクな休憩もとらずに働いて、明け方に帰ってきて、テレビをつけて酒をのみながらネットサーフィンして、昼頃に寝て、夕方頃目覚めて、テレビを見て、またバイトに行く。この繰り返し。(略)月給は10万円強。北関東の実家で暮らしているので生活はなんとかなる。だが、当は実家などで暮らしたくない。両親とはソリが合わないし、車がないとまともに生活できないような土地柄も嫌いだ。ここにいると、まるで軟禁されているような気分になってくる。できるなら東京の安いアパートでも借りて一人暮らしをしたい。しかし、今の経済状況ではかなわない・30代の男が、自分の生活

    いちヘルパー
  • 無能力者・経済・交換 - sugitasyunsukeの日記

    野崎泰伸さんの「障害の哲学・序論」を読んだ。 http://www.nozakiy.org/ronbun/200703.html このエントリーの一番下に引用したパッセージ辺りを、今後時間をかけて考えようと漠然と思っているわけなんだけど。合理的経済的主体を前提に議論を始める「経済学」を、外=規範から云々するのではなく、交換様式の別の可能性として(内から)考えるとどうなるのかと。「働く気のないカヲルさん」や「そもそも働く能力のないアヤナミさん」からスタートするとか。野崎さんの言葉でいえば「「生存の肯定のための経済学体系」を構築する必要性」。 ↓mojimojiさんの下記のノートも関わる。 「無能力者の生産性(仮題)」 http://www.mojimoji.org/wiki.cgi/RandomNote?page=%CC%B5%C7%BD%CE%CF%BC%D4%A4%CE%C0%B8%BB

    無能力者・経済・交換 - sugitasyunsukeの日記
  • ALSのひとの小規模なヘルパー経験から少し考えてみました。 - sugitasyunsukeの日記

    以下の記事を読んだ。 生きている脳http://blog.m3.com/Visa/20070308/2 過剰で貧困な想像力http://d.hatena.ne.jp/dojin/20070317#p1 天国へのビザはいらない──尊厳ある生こそを求めるhttp://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070325/p1 ロックトインを「地獄」と呼ぶことについてhttp://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070326/p1 ブログ批判http://blog.m3.com/Visa/20070325/2 尊厳死反対の方たちへhttp://blog.m3.com/Visa/20070326/2 ロックトインについて語ることについて(追記1と追記2あり) http://d.hatena.ne.jp/dojin/20070326 ロックトインについてhttp://

    ALSのひとの小規模なヘルパー経験から少し考えてみました。 - sugitasyunsukeの日記
  • いちヘルパーの小規模な日常 - 東浩紀+北田暁大『東京から考える』

    東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス) 作者:浩紀, 東,暁大, 北田NHK出版Amazon ここまではその光景について「ジャスコ的」という固有名が出され、どことなく否定的な印象が付されていたけれども――そしてまた実際にそれを否定する議論も多いのだけれど――、僕としてはそれは必ずしも否定されるべきものではないと捉えている。というのも、ジャスコ的世界は、ある意味で安全で清潔な世界だからです。前回に東雲の例を出したことからも分かるように、その「ファスト風土」は――少なくとも東京のなかに進入しているていどのジャスコ的空間は――、適度にバリアフリーで、適度に監視カメラが設置され、適度にベンチやゴミ箱が配置された「住みやすい」空間でもある。そのようないわば「人間工学的に正しい」空間が、いまコンビニやファミレスと結びついて、東京といわず日中を侵し、風景を画一化している。人間

  • 切りきざまれる胎児を凝視する中で - sugitasyunsukeの日記

    1970年代前半の青い芝の会やウーマンリブのことをちょこっと調べていて、田中美津が繰り返し口にする「子殺し」のことがずっとひっかかっていた。当時の優性保護法改悪への対抗運動の文脈でも、田中の「子殺し」への独特の拘泥は、賛否両論を招いたらしい。もともとは横浜の母親による障害児殺しがあり、その母親に対する同情と減刑キャンペーンがあり、青い芝等の障害者団体がこれに猛抗議して、中絶の権利を主張したリブの人々も複雑なポジションに置かれることになる。胎児の中絶と障害児殺しはもちろん同じ問題ではないが、連続してもいる。リベラリズム/パーソン論の文脈で言えば(煩雑な議論は飛ばす)、ある時期以前の胎児は「人格」を持たない、だからそれを廃棄しても「殺人」には当らない、とされる(例えば脂肪の吸引等と同じ、となる)。中絶の権利、あるいは「産む産まないは私の権利」も、同様のロジックで正当化しようと思えば正当化できる

    切りきざまれる胎児を凝視する中で - sugitasyunsukeの日記
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