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宗教と読書に関するnijuusannmiriのブックマーク (29)

  • [書評] ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥): 極東ブログ

    仏教学者の佐々木閑に、仏教者と称する評論家・宮崎哲弥が、仏教とは何かといったことを問うという、出版社あるあるの対談書だろうと、『ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥)』(参照)について予断をもっていた。というのも、宮崎について、もうずいぶん昔になる、というか曲がりなりにも小林よしのりのゴーマニズム宣言を読んでいたころのことだ、宮崎が仏教者であることがその漫画でおちょくられていた。小林に共感しない私ではあったが、宮崎の仏教観もヘンテコなものだなと思ったものだった。人の宗教観というのは存外に変わらないものだから、宮崎のそれも同じだろうし、佐々木も最近の国際的な仏教学を知識を淡々と語るくらいかな、いずれ私が読むような対談でもあるまいと思っていた。『ゆかいな仏教 』(参照)みたいなかなと。 が、この『ごまかさない仏教』は、そうでもなかった。おもしろい。読み進めるにつれ、勉強になってしまうのであ

  • [書評] 聖なる道を歩く 黙想と祈りのラビリンス・ウォーク(ローレン・アートレス): 極東ブログ

    先日チャペルの前を通りがかると何か案内の人がいてイベントをしているらしく、聞いてみると「ラビリンス」だという。簡単な説明も受けるがなんのことかわからない。おそらく上座部仏教的な歩く瞑想、あるいは歩く祈りのようなもののキリスト教バージョンではないかと思い、時間もあったのでとにかく体験してみることにした。 チャペルに入る。薄暗く、見渡すと私以外の人はいない。いくつかキャンドルがともりコプト教を連想させる音楽が流れ、いかにも神秘的な演出となっている。椅子は後方に片付けられ、床に大きな布が敷いてあり、そこに円周を基にした迷路のような柄が描かれている。つまり、それがラビリンスなのだろう。を脱いでお歩きください、とのこと。やはり歩く瞑想であったかなと思う。 ラビリンスの入り口はわかるが出口はない。中央に花の形のスペースがあり、そこが中央で、たぶん、そこに入ったら来た道を引き返せということだろう。

    [書評] 聖なる道を歩く 黙想と祈りのラビリンス・ウォーク(ローレン・アートレス): 極東ブログ
  • 「神社」とは何なのか? アニミズムから靖国まで、神道の謎を追う 講談社 今日のおすすめ

    「神道」という文字はどう発音されてきたのでしょうか、これがこのの最初の問いです。 ・「神道」の語はもとは中国で用いられていたのが、そのまま古代日に導入されたもので、その読みも当初は濁音で「ジンドウ」であった。 ・その意味するところは、「仏教下の神々をさす仏教語」である。 ・この「神道(ジンドウ)」が室町期、14世紀ごろの日で、清音表記による「シントウ」へと転換したのであって、それは「神」の語の集合名詞から抽象名詞への転換にともなうものであったと考えられる。 これらを明らかにしたのはノルウェー・オスロ大学のマーク・テーウンでした。彼は「神道(シントウ)」は「自然発生的な日固有の民族的宗教」と考えられてきた(いる?)常識の誤りを指摘したのです。 テーウンが提起した「神道」の読みや語義の問題を踏まえて、日の宗教全体のなかで神道がどのような位置を占め、どのような役割を担わされたかを追求し

    「神社」とは何なのか? アニミズムから靖国まで、神道の謎を追う 講談社 今日のおすすめ
  • 『コーランの読み方』がポプラ新書から発売・すぐ増刷に | 中東・イスラーム学の風姿花伝

    中東・イスラーム学の風姿花伝 池内恵(いけうち さとし)が、中東情勢とイスラーム教やその思想について、日々少しずつ解説します。有用な情報源や、助けになる解説を見つけたらリンクを張って案内したり、これまでに書いてきた論文や著書の「さわり」の部分なども紹介したりしていきます。予想外に評判となってしまったFC2ブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝(http://chutoislam.blog.fc2.com/)」からすべての項目を移行しました。過去の項目もここから全て読めます。経歴・所属等はブログのプロフィール(http://ikeuchisatoshi.com/profile/)からご覧ください。 メニューとウィジェット

    『コーランの読み方』がポプラ新書から発売・すぐ増刷に | 中東・イスラーム学の風姿花伝
  • [書評] コーランには本当は何が書かれていたか? (カーラ パワー): 極東ブログ

    「コーランには当は何が書かれていたか? 」という問いかけは、そのままの形で魅力的な問いだと言っていいだろう。私は井筒俊彦の翻訳でコーラン(クルアーン)をすべて読んだことがあり、そして聖書についても一応ではあるが全巻通して読み、それなりに理解はしたが、さてでは、コーランには当は何が書かれていたか? と問われたとき、私は残念ながらアイロニカルな答えしか出すことができない。それは、聖書には当は何が書かれていたか? という、自分の、おそらく青春をかけたとしてもよい問いかけがもたらした惨めな姿に近いものである。 幸いにしてアイロニーは、ユーモアが一時の気休めであるのと似て、答えではない。だから私は今でも静かにその問いに向き合う。書『コーランには当は何が書かれていたか? 』(参照)は、そうした自分の思いに添ってちびちびと、そして対話するように読んでいった。そのように読む書籍でもあった。 当初

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  • イスラーム教をなぜ理解できないか(5)米保守派による共鳴 | 中東・イスラーム学の風姿花伝

    の「こころ教」によるイスラーム教理解の阻害、欧米のリベラル・バイアスや、ルター的宗教改革を普遍的モデルとしてしまう問題などを取り上げてきたが、そういえば、今、仕事で依頼されてこのをずっと読んでいて、関連書籍と合わせて検討しているのだけれども(遅れています)、ここでも関連する議論が出てくる。 ウォルター・ラッセル・ミード『神と黄金 上 イギリス、アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか』 アメリカの保守派と目され るウォルター・ラッセル・ミードも、イスラーム教のいわゆる「過激派」と論じられがちなワッハーブ派やサラフィー主義と、アメリカのプロテスタントとの類似性を論じている。そして、ミードはアメリカの活力と指導力の発展の過程では、負の側面はあれども、「過激」なプロテスタントの運動が不可欠な要素だったと肯定的評価をしているのである。間接的に、ワッハーブ派はサラフィー主義についても、長期的に

    イスラーム教をなぜ理解できないか(5)米保守派による共鳴 | 中東・イスラーム学の風姿花伝
    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2015/06/14
    「元来はアメリカの保守は、根底においてリベラリズムを共有している。ここが新世界のアメリカと欧州を分けるところである」
  • 水野『イメージの地層』:美術史と信仰形態の関係を見た本なんだが…… - 山形浩生の「経済のトリセツ」

    イメージの地層 -ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言- 作者: 水野千依出版社/メーカー: 名古屋大学出版会発売日: 2011/09/23メディア: 単行 クリック: 26回この商品を含むブログ (10件) を見る うっひー、先日採りあげた『叡智の建築家』と同じくまた分厚いだが、やはり大変おもしろい。分厚いは、それだけいっぱい書かせるだけのおもしろさがその主題にある場合がそこそこ多いと思う。もちろん、そうでない場合もたくさんあって、書く方にやたらに体力があるか、あるいはまったく整理能力がなくてとにかくバカみたいになんでも突っ込んでしまった場合、同じ事だが基的に文章を書く能力がなくて、ダラダラあーだこーだ関係ないことを言ってるだけの場合もままあるので、絶対とはとても言えないんだけど、でもこのはよい原因で分厚さが出ている(あと参考文献とかたくさん。後ろ三分の一は注と参考文献

    水野『イメージの地層』:美術史と信仰形態の関係を見た本なんだが…… - 山形浩生の「経済のトリセツ」
    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2015/06/08
    Amazon見たら、1万円超えか…。同じ著者のもう少し安い本から入るかな。
  • アメリカを動かす「反知性主義」の正体:日経ビジネスオンライン

    イラク戦争のころ、米国駐在の友人が「こっちの人は、『Save Iraq!』ってステッカーをクルマに貼ってるんだぜ」と驚いていました。世界中から突っ込まれても平気で我が道を行く、どうしてそこまで己を信じることができるのか。脚下照顧の国に生きる私たち、慎み深い日人には分かりにくいところです。どうやら米国の底流に「反知性主義」とやらがあるせいらしい。え、語感からして、ものすごくやばい感じがしますが… (聞き手:山中浩之) このところよく目にする「反知性主義」という言葉があります。字面からは「科学や論理的思考に背を向けて、肉体感覚やプリミティブな感情に依る」ような印象を受けるのですが。 森:もともとの「anti-intellectualism」のニュアンスは、ちょっと違います。ネガティブな意味もありますけと、それだけじゃない。すごく誤解を招きやすい文字の並びですけれどね。 たしか『アメリカの反

    アメリカを動かす「反知性主義」の正体:日経ビジネスオンライン
    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2015/04/26
    「森本あんり・国際基督教大学副学長に聞く」おもしれー。
  • cakes(ケイクス)

    cakesは2022年8月31日に終了いたしました。 10年間の長きにわたり、ご愛読ありがとうございました。 2022年9月1日

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  • [書評]愛は、あきらめない(横田早紀江): 極東ブログ

    どさっと届いたDMのカタログの一つの表紙がもうクリスマスっぽくなっていて、おやおや気の早いことだなと見ると、「いのちのことば社」の「クリスチャンライフ カタログマガジン」だった。「だったらそうだよなあ」と思いつつ、ぼんやり表紙を眺めていたら、「私の力の源は、祈り」とある。福音派的な信仰の人はいつもそうだよねと、普通に見過ごしてしまいそうになったが、その横に「横田早紀江さん」と書いてあって、驚いた。 横田早紀江さんは、北朝鮮による拉致被害者・横田めぐみのお母さんである。彼女はクリスチャンだったのか? 知らなかった。まさかとまでは思わなかったが、そこに思いが至ることがなかった。各種媒体で彼女を見かけることがあっても、品のいい女性だなあという以上に、この人はクリスチャンだろうと思うことはなかった。 カタログを捲ると巻頭に特集があり、この書籍が「横田早紀江さんを囲む祈りの会」での話を中心にまとめた

    [書評]愛は、あきらめない(横田早紀江): 極東ブログ
    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2014/10/02
    「そして、北朝鮮という国家と、それを支持してきた人たちへの憎悪のような感情が胸にこみ上げそうになる。だが、そこで憎悪は終える。横田早紀江さんが願うのは憎しみではない」
  • cakes(ケイクス)

    cakesは2022年8月31日に終了いたしました。 10年間の長きにわたり、ご愛読ありがとうございました。 2022年9月1日

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  • [書評]イエス・キリストは実在したのか?(レザー・アスラン): 極東ブログ

    2013年に書かれたレザー・アスランの『イエス・キリストは実在したのか?』(参照)という邦題は、現代ではそれだけで日人の知的関心を誘うのではないか。帯に「イスラム教徒による実証研究で全米騒然の大ベストセラー」ともある。そのあたりも興味引かれるところだ。 私は自著にも書いたが、若いときこの分野の学問を学んでいた。歴史的イエスの研究というテーマである。当時、学問的にはすでに歴史的イエス像というのは否定的に解決されていた。否定的というのは概ね歴史的にイエスは存在すると見てよいが、どのような人物であったかは皆目わからないし、その歴史人物像の研究はさしたる意味がないというものだった。 新約聖書学に慣れていない人や、キリスト教信仰者の一部にはこうした見解を受け容れがたく思うかもしれない。私はいろいろ学んだせいもあるがごく普通に受け容れて、すでに自著でも触れたが、その先の研究をしたいと思っていた。アラ

    [書評]イエス・キリストは実在したのか?(レザー・アスラン): 極東ブログ
  • フィリップ・ヴァルテール、2007、「中世の祝祭」: muse-A-muse 2nd

    石川雅之、2013、「純潔のマリア(3)」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/378787952.html 日用の糧: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/379141309.html 以前のエントリでも少し触れたけど、聖母マリアや聖人というのはケルトなどキリスト教以前の土俗の信仰をキリスト教が習合したものぽい。 というか、マリアと聖人の話だけではなく、ミトラや北欧神話的な伝承もキリスト教は習合してきた。それはキリスト教だけの話でもないし、大衆の現世利益的な要求に媚びて宗教や大衆を騙して、って話でもないみたい。書結論から、 カルナヴァルがインド=ヨーロッパ世界、さらには前インド=ヨーロッパ世界に属すものであり、あいついで諸文明にとりこまれ、継

  • [書評]ただ坐る 生きる自信が湧く 一日15分坐禅(ネルケ無方): 極東ブログ

    ネルケ無方さんの名前をよく見かけるようになった。アマゾンを見たらけっこうも出されている。外人さんで禅に入れ込むというのは、けっこうよくある話だからなとあまり関心ももたなかった。いや、この「外人さん」という言い方も差別的でひどもんだなとは思うが「外国人」とも違った微妙に親しみの含みがあって難しい。もう少し言うなら、日人以上に日を熟知する外国人が出現してきたことの含意もないわけではない。 いすれにせよ、外国人や知識人が関心をもつ禅、あるいはメディアや書籍とかで著名な禅のお坊さんの説教などは、道元を敬愛する私にしては、もうどうでもいい存在である。ところがどうも、ネルケさん、道元の徒らしい。え?と思った。いやそう思うことがまったくもって失礼な話なのだが、あの正法眼蔵の正法の禅を理解する外人さんがいるのか、いやいるのだろう、という予感がして、まず一つ、わかりやすく坐禅の話を読んでみた。 率直に

  • 「夜と霧」の謎: 極東ブログ

    cakesに寄稿している書評でフランクルの「夜と霧」が今日、公開された(参照)。この機会に日語の旧訳の読み返しに加え、新訳と英訳(1984年版と2006年版)を読んでみたが、書評的な話以前に、日では書の書誌的な情報が少ないように思われたので、その部分の比重がやや多くなり、書の感動の核心がうまく表現できなかったかもしれないとも懸念した。が、感動の前提としての正確な読みにはやはり書誌的な情報は必要かと思い直した。新しく読む人や学生にも書誌的な情報は有益でもあるだろうし。 それはそれとして、二点気になる、いわば「夜と霧」の謎が心に残り、これをcakesの書評に含めるかはかなり悩んだ。結果、最小限の指摘に留めた。そこに拘ると、不確かな思い込みでバランスが悪くなるように思えたからだ。 そんなわけでこの話は書かなくてもよいことなのだが、ブログのほうでは簡単に触れておこう。「夜と霧」の紹介につ

  • [書評]死との対面 瞬間を生きる(安岡章太郎): 極東ブログ

    先日ふと鶴見俊輔さんと安岡章太郎さんのことが気になって書店でぶらっとしていたら、安岡章太郎さんの「死との対面 瞬間を生きる」(参照)が文庫で復刻されていたのを見つけた。なぜと思うこともなく読んだ。 扉裏には、「書は『死との対面』(1998年/小社刊)を加筆修正し文庫化したものです」とあるので、現在92歳の安岡先生の近況も含まれているのかと期待したが、初版と比較したわけではないが、ざっと読んだ限りでは、特になかったように思う。前書きも1998年のままだった。 気がつく加筆がまったくなかったわけではない。近藤啓太郎について触れた段落の末には、括弧で、(註・近藤氏は二〇〇二年没)と追記されている。初版と復刻の間に亡くなった。近藤啓太郎と限らず、あちこち没の追記がある。バトルロワイヤルという趣向でもないが、安岡先生の存命が強調されている。 1998年に安岡章太郎は78歳。表題の「死との対面」も

  • [書評]浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか(島田裕巳): 極東ブログ

    書「浄土真宗はなぜ日でいちばん多いのか」(参照)の表題の問いについて関心がある人なら、それは「おわりに」の数ページが扱っているだけなので、さっとそこだけ立ち読みすれば終わる。ただ、さっと読んでわかる回答は書かれていない。筆者の用意した回答としては「庶民の宗教だから」というのが筆頭に来るが、それが明瞭に支持された解説に拠らずややわかりづらい印象を受ける。しかし、そこは書の欠点ではない。 むしろ書全体を読めば、明瞭な答えに導かれる。つまり、浄土真宗は帯から家系による寺の相続が可能になったこと(来寺はそういうものではない)と、帯に伴う縁組みで閨閥が形成できることだ。 浄土真宗を宗教としてみるとわかりづらいが、諸侯や商店の特異とも見ればよいとも言えるだろう。浄土真宗藩や浄土真宗店とでもいうようなものである。さらに江戸時代に幕府から特別に保護されたことの要因も大きい。 ただし、それらの

    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2012/04/26
    面白そう。
  • [書評]禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明(エレーヌ・ペイゲルス): 極東ブログ

    聖書には含まれていないイエス・キリストの教えが存在するとしたら、どう思うだろうか。キリスト教徒なら「そんなのは悪い冗談でしょ。聖書は聖霊の導きで書かれているのです」と答えるかもしれない。だが、聖書に含まれている、イエス・キリストの生涯を記す4つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)以外に、当のイエス・キリストが語った言葉を収録する別の福音書がかつて存在し、そしてそれが今の聖書に収録されている四福音書よりも真実を伝えるとしたら、どうだろうか? いや、何をもって「真実」だというのかという議論にもなるかもしれない。書、「禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明」(参照)は、その問題を質的に扱っている。 訳の表題「禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明」は日人に向けてよく練られている。確かに書では、現在のキリスト教からは禁じられた、異端の福音書が議論されている。キリスト

  • 大田俊寛「オウム真理教の精神史」:オウムの「なぜ」を描き出した一冊で、学問としての社会的責務を宗教学者が真摯に考えた立派な本。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

    オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義 作者: 大田俊寛出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2011/03メディア: 単行購入: 61人 クリック: 1,271回この商品を含むブログ (25件) を見る 先日、オウム関係者の死刑判決で、遺族は「なぜ」がわからず不満顔だったという報道について、ぼくはなぜなどと問うべきではない、どうせ答えなんか出ないんだから、という話を書いた。が、書はその「なぜ」をまがりなりにも分析して一応の答を出したであり、またオウム事件に対してこれまでまともな対応を見せてこなかった宗教学の学者が、そうした現状を真摯に反省して宗教学的な取り組みからオウムを切ってみせた点でもきわめてえらい。 読んでいて、まさに上で出てきたリアリー『神経政治学』(そしてぼくのあとがき!)が引用されていてびっくりしたんだが、オウムがどんな宗教・思想的な系譜につながるのかを明

    大田俊寛「オウム真理教の精神史」:オウムの「なぜ」を描き出した一冊で、学問としての社会的責務を宗教学者が真摯に考えた立派な本。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
  • [書評]「正法眼蔵随聞記」: 極東ブログ

    「正法眼蔵随聞記」は不思議な書物である。これに魅せられた人は生涯の書物とするだろうし、私も40歳を過ぎて絶望の淵にあるとき、ただ読みうるといえば、このだけでもあった。このから生きることを学びなおした。 「正法眼蔵随聞記」は鎌倉時代の僧・懐奘が師・道元の教えを記した書とされている。懐奘にこれを公開する意図があったかはわからない。現在の「正法眼蔵随聞記」という書名があったわけでもない。それでも「正法眼蔵随聞記」という書名は、道元の主著「正法眼蔵」を連想させ、その正法に「随い聞く」という主旨が反映されている。 懐奘が30代半ば、新しく得た、そして真実の師である道元の教えを書き出したのは、その学び始めのころ、文暦元年(1234年)ごろとされている。北条泰時執権の時代である。書き記した文は、懐奘の死後、その弟子によって書写されていたが、広く世間に知られるようになったのは、現在の岩波文庫が採って

    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2011/07/01
    積読が増えすぎてるので、とりあえず脳内の「いつか読む本リスト」にメモ。