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哲学に関するrodoriのブックマーク (1,043)

  • 「アラン・ケイの」オブジェクト指向とは何だったか?元哲学者のエンジニアがまとめてみた - Qiita

    2020/5/13追記 オブジェクト指向と哲学の関係について書いた記事ではないです。せっかくだしQiitaっぽいタイトルつけようと思ったら結果的に釣りっぽくなってしまった 概要 オブジェクト指向とは何か?ということを真面目に調べていくと、オブジェクト指向には二種類ある、という話に突き当たる。sumim氏のQuora回答などを参照。 Smalltalkの設計者アラン・ケイによる、メッセージング重視のオブジェクト指向 C++の設計者ストラウストラップによる、クラス重視のオブジェクト指向 今回はこの前者のオブジェクト指向について、アラン・ケイの書きものを読んで調べた結果をまとめ、コメントを付す。 参考文献は最後にまとめて出す。参照元は「(AOO)」のように略記で示す。 アラン・ケイのオブジェクト指向 OOPは私にとって、メッセージング、状態処理の局所的な保持・保護と隠蔽、そしてあらゆる事象の徹底

    「アラン・ケイの」オブジェクト指向とは何だったか?元哲学者のエンジニアがまとめてみた - Qiita
  • 「反お笑い」の哲学史(後編) - 歴ログ -世界史専門ブログ-

    近代哲学の中の「反お笑い」 古代から近代までの哲学の中における「反お笑い論」をまとめています。 前編では古代の反お笑いの創始者プラトンからプロテスタントの反お笑い論までまとめています。まだご覧になっていない方はこちらをどうぞ。 後編は近代哲学編です。 5. ホッブズ「笑いは突然の得意」 近代社会哲学の基礎を築いたトーマス・ホッブズも笑いを否定した人物です。 ホッブズといえば、国家のあり方が論じられた1651年の著作「リヴァイアサン」が有名ですが、このの中で笑いが否定的に論じられています。 ホッブズにとって国家とは国民を素材とする巨大な人造人間であるため、国家の構造を理解するためにはまず人間そのものを理解する必要があると考えました。 リヴァイアサンではまずは演繹法により人間論が展開されます。人間性に関する一般的なカテゴリをまずは定義し、その部分的な下位カテゴリとそれとの関連を定義、そしてさ

    「反お笑い」の哲学史(後編) - 歴ログ -世界史専門ブログ-
  • 顔を持たぬために歴史を書くこと 慎改『ミシェル・フーコー』 - オシテオサレテ

    ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書 新赤版 1802) 作者: 慎改康之 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 2019/10/19 メディア: 新書 この商品を含むブログを見る 慎改康之『ミシェル・フーコー 自己から抜け出すための哲学』岩波新書、2019年。 著者は、フーコーの著作、講義録の見事な翻訳と、明晰な解説をすでにいくつも世に送り出している。書は、その著者による待望のフーコー入門書である。入門書であるのだから、フーコーの主要著作の内容紹介はもちろんなされる(まだ邦訳のない『肉の告白』の解説もなされる)。しかし、それと並んで書が重視するのは、著作と著作のあいだにあるつながりである。フーコーは次々と主題を変える。その変化をどう説明すればいいのか。 著者によれば、最初期のフーコーの問題意識は、近代社会のなかで失われた人間性をどう取り戻すか、というものだっ

  • http://heideggerforum.main.jp/ej11data/Okada.pdf

  • 「怠惰または鬱」アガンベンを読む(4) -『他者の所有』補遺(4) – | 公共空間 X

    高橋一行 (3)より続く アガンベンは、『スタンツェ』(1977)において、中世の修道院におけるを論じている(注1)。それは「白昼のダイモン」と呼ばれ、怠惰、陰、生の倦怠、無為とも呼ばれる。「僧院の中で行われるあらゆることに対して、無気力になる。安らかに過ごすことも、読書に参加することもできなくなるのである。こうして哀れにもこの修道士は、修道院の生活から何の楽しみも得られないなどと不平を漏らすようになる。そこに留まる限り、彼の信仰は何の実りももたらさないだろうと嘆き、苦悶するのである。うめくような声で何か修行に努めようと宣言はするが、それも無駄で、放心したかのようにいつも同じ場所にじっとして、悲嘆にくれているのである」(p.26)。 怠惰という言葉を使っているが、明らかに、これはの現象だとアガンベンは考えている。その特徴は、4つある。それは、「精神的な生活の負担や困難さを前に狼狽して

  • 「所有しないで使用する」アガンベンを読む (1) -『他者の所有』補遺 (1) – | 公共空間 X

    高橋一行 G. アガンベン (1942 – ) は、ネグリと並んで人気のあるイタリアの哲学者である。著作は、20冊近くが翻訳されているが、私がここで扱うのは、以下の4部作を構成する5冊の翻訳である。この4部作は未完で、また、原文は出版されているが、翻訳がまだなされていないものもある(注1)。 I 『ホモ・サケル -主権権力と剥き出しの生-』(原文1995=翻訳2003) II-1 『例外状態』(2003=2007) II-2 『王国と栄光 -オイコノミアと統治の神学的系譜学のために-』(2009=2010) III 『アウシュヴィッツの残りのもの -アルシーブと証人-』(1998=2001) IV 『いと高き貧しさ -修道院規則と生の形式-』(2011=2014) この最後の作品が、昨年末(2014.10.24)に翻訳され、私は、興味を覚えた。そこでは、所有が、正確に言えば、所有しないとい

  • ラカンの鬱論     『他者の所有』補遺(7) | 公共空間 X

    高橋一行 (6)より続く 「アガンベン論(1) – (5)」で、を論じている。所有論の帰結として、喪失の病であるに言及し、またアガンベンの論を、「所有しないということ」を主張しているものだと捉えた。そのアガンベンが、修道院におけるを論じていて、「アガンベン論(4)」ではそのことを対象とし、その際に松卓也の「フロイト=ラカンのうつ病論」を参照し、その前半の議論を引用した。今回は、その続きである。いよいよラカンの論について議論したい。 まず、ラカンの「4つの言説」を取り挙げ、続いて、5番目の「資主義者の言説」について説明する。ここからラカンのへの言及を見て行きたい(注1)。 疎外と分離の説明から始める。ここに、剰余享楽と対象a、それに象徴界と現実界の関係という、ラカンの基的な概念がすべて出て来る。 真理によって支えられた動因が、他者に命令する。その結果として生産物ができる。これ

  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第2回「オーストリア的」な知はいかに立ち現れたか〜ドイツ近代哲学との対峙の中で:Daily PLANETS

    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第2回「オーストリア的」な知はいかに立ち現れたか〜ドイツ近代哲学との対峙の中で 分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第2回。アメリカに亡命して情報科学の土台を築いたフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3人に通底する「オーストリア的」な知の脈絡とは? その探求は、19世紀のドイツ統一運動以降の中欧諸邦の大学制度と学派形成へと遡っていきます。 「オーストリア哲学」とは何か 「オーストリア哲学」という言葉をご存知だろうか? 哲学では、「フランス哲学」や「東洋哲学」のように、国や民族、地域の名称を冠した分類がよく用いられる。「オーストリア哲学」もその一つである。とはいえ、この言葉を聞いたことのある人は専門家の中ですら、かなり少ないはずだ。ドイツ

    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第2回「オーストリア的」な知はいかに立ち現れたか〜ドイツ近代哲学との対峙の中で:Daily PLANETS
  • WEB連載:失われた未来を求めて 木澤佐登志 / 第2回 資本主義リアリズムの起源、アジェンデの見果てぬ夢

    「未来はわれらのものだ」と言いながら死んでいったサン=シモン、「未来を構築しなければならない」と言いながら自殺していったマーク・フィッシャー、そして「未来はここで終わる」と言ったリー・エーデルマン――。ルイス・キャロルは暗室の中で少女たちの写真を現像し、カール・マルクスは大英図書館で来るべき革命のための書を執筆する。これは、未来と子どもたち、近代と脱近代、革命と反動、19世紀と20世紀、ユートピアとディストピア、メランコリーとノスタルジー、テクノロジーとオカルティズム、そして失われた未来に捧げるエッセイである。 マーク・フィッシャーは『資主義リアリズム』の中で、マルクス経済学者のクリスティアン・マラッツィの議論を引きながら、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの変遷には具体的な日付を与えることができる、と述べている。その日付とは、1979年10月6日、すなわち連邦準備制度が金利を2

    WEB連載:失われた未来を求めて 木澤佐登志 / 第2回 資本主義リアリズムの起源、アジェンデの見果てぬ夢
  • 法四依 - Wikipedia

    法四依(ほうしえ)とは、大乗経典に説かれる4つの法義をいう。 維摩経の法供養品や大智度論、成実論の第2にも見られるが、特に涅槃経の四依品では、仏滅後の末世(すなわち末法)に正しく依るべき4つの法義をいい、涅槃了義の観点から法四依を再説している。 依義不依語(義に依りて語に依らざれ) arthapratiśaraṇatā na vyañjanapratiśaraṇatā 依於義不以厳好(支謙)、依趣於義不依於文(玄奘) 意味に依拠して、文辞に依拠しない 依智不依識(智に依りて識に依らざれ) jñānapratiśaraṇatā na vijñānapratiśaraṇatā 依於慧不為文飾(支謙)、依趣於智不依於識(玄奘) 智慧に依拠して、知識に依拠しない 依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ) nītārthasūtrāntapratiśaraṇatā na neyārt

  • 新反動主義のおもしろさ

    このところneoreactionismに興味を持っている。ネオリベラリズムは新自由主義、ネオコンサバティズムは新保守主義と訳されるので、ネオリアクショニズムは新反動主義とでも訳すべきか。略してNRxと書かれることもある。 最近、新反動主義を含むこの種のネトウヨ的思想がアメリカで流行り始めているようで、まとめてAlt-right(オルタナロックならぬオルタナ右翼とでも称すべきか)と称するのだが、この関係の人脈が米共和党の大統領候補になったドナルド・トランプの陣営にまで潜り込んでいる。そのせいもあり、トランプやヒラリー・クリントンの演説でもAlt-rightが大まじめに語られるようになった。少し前まではごく少数の変人だけが興味を持つフリンジ(異端)に過ぎなかったのが、メインストリームのメディアにも取り上げられるようになったわけで、これは大出世と言えよう。率直に言えば、ポリティカル・コレクトネス

    新反動主義のおもしろさ
  • トップページ | 読書人WEB

    なぜ、を読むのか? Why do we need to read books なぜ、を読むのか?書『読書人カレッジ2022』の執筆者の一人である明石健五は、それを「考えるため」であると言います。 ある未知のものに出会ったとき、そこに驚きと感動が生まれる。そうして、初めて自分なりに思考することができ、それを人に伝えることができるようにもなる。 そういう過程を生きられる人のことを、「知性ある人」というのではないか。では、「知性」を自らのものにするためにはどうすればいいのか。繰り返しになりますが、「読み」「考え」「書く」ことを通してしか感得できないのではないか。 新しい出来事や局面に出会い、答えのない問題を考えることで鍛えられていくものが、確かにある。そういう問題は、すぐれたの中にいくつも見つけることができます。 繰り返し考えることによって、自分の思考を鍛えていく。それによって、今の世の

  • つねにすでに - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "つねにすでに" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年1月) つねにすでに(ドイツ語: immer schon, 英語: always already)あるいは「常に既に」とは、文学理論や現代思想の言説において頻繁に用いられる二重副詞である。英語では、しばしばハイフンを伴って「always-already」とも記される。 マルティン・ハイデッガー 意味[編集] いつからと確定できる始まりなしに続いている行為や状態に対する修飾語。汎時的(panchronic)な先行性(priority/Priorität=先在性)を言い表

    つねにすでに - Wikipedia
  • 「海外生活の不安も、些細な冒険も素直に書いてしまおう」哲学者・千葉雅也が過ごしたアメリカ生活 | 文春オンライン

    ――著書『勉強の哲学』が「東大・京大で一番読まれた」になった哲学者の千葉雅也さん。の刊行からまもなく、大学の学外研究(サバティカル)制度を利用して、アメリカに4ヶ月ほど滞在した。ボストンのハーヴァード大学ライシャワー日研究所を拠点に、ニューヨーク、マイアミ、ロサンゼルスへ。初めて踏んだアメリカの地での紀行文は、ツイートが元になっている。最新刊『アメリカ紀行』はどのように書かれたのか? ◆◆◆ 「書くことのハードルを下げたかったんです」 千葉 せっかく初めてアメリカに行くので、行く前から、サバティカルの間のことを何かにできないかな、と思っていたんですね。行っている間に積極的にツイートをして、それを素材に何か書くことをできないだろうか、と。というのも、この中でも書いてるんですが、僕にとっては書くことのハードルを自分自身でどう下げるかが数年来のテーマだったんです。最初から高い完成度のもの

    「海外生活の不安も、些細な冒険も素直に書いてしまおう」哲学者・千葉雅也が過ごしたアメリカ生活 | 文春オンライン
  • 音楽の哲学にはどのようなトピックがあるのか - Lichtung

    はじめに じぶんが分析美学の研究をはじめるにあたって、芸術の哲学、分析美学の研究者の森功次さんの記事「分析美学にはどのようなトピックがあるのか」*1におおいに助けられました(森 2015)。そこで、稿では、音楽の哲学、音楽美学をはじめようと考えている方のヒントになればと思い、どのような問いが問われているのかをまとめました。 項目は、英語圏の分析美学の教科書のひとつであるThe Routledge Companion to Philosophy of Music*2の第一部を参照しています。 解説は、何が問われているのか、それを問うと何がうれしいのかを中心に、可能であれば、関連する文献を紹介しています。 それでは、ここからさらに、音楽の哲学を加速させましょう。ちなみに、二万字弱あります。個々のトピックと説明は独立しているので、一気に読まず、お好きなときにつまみ読みしてくだされば。 はじめに

    音楽の哲学にはどのようなトピックがあるのか - Lichtung
  • 古代ギリシア哲学を学びたい人のためのブックガイド(未完成版) - サラマンドラの水槽

    ※2019/3/12 文献を2点追加。それに伴い他の紹介文も少し変更。 ある場所でのやり取りがきっかけで、少し前から作ってました。 タイトルにある通り未完成版ですが、ためしに公開してみたいと思います(特に1と2が弱いので、これから追加されていくと思います)*1。 この手のリストで万人が納得するものを作成することは不可能だと思いますので、私自身の趣味が色濃く出ている選書となっていることを先にお断りしておきます。 また、こちらも突っ込まれる前に言っておくと、ヘレニズム哲学には不案内のため今回は省いています(もう少しきちんと勉強しないといけませんがなかなか時間が取れません……)。 選定の基準は、 (1)日語の書籍であること(辞書や文法書は除く) (2)内容の点でお勧めであること の2点です。そのため、絶版となっている書籍が挙げられている場合もあります。その場合は図書館等で参照してください。 1

    古代ギリシア哲学を学びたい人のためのブックガイド(未完成版) - サラマンドラの水槽
  • なぜ組織をゼロから再構築しなければならなかったのか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【後編】|FINDERS

    CULTURE | 2019/04/02 なぜ組織をゼロから再構築しなければならなかったのか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【後編】 前編はこちら 批評家・思想家・作家として、そして出版社「ゲンロン」の代表として日で類を見ない独自のポジションを築き上... 前編はこちら 批評家・思想家・作家として、そして出版社「ゲンロン」の代表として日で類を見ない独自のポジションを築き上げてきた東浩紀氏。同社の事業の核として発行してきた批評誌『ゲンロン』が、東氏の単著『ゲンロン0』を含め3年間で全10冊を刊行し、第一期が終了となった。 このタイミングで東氏にインタビューを敢行し、『ゲンロン』3年間の振り返りおよび、今後の事業展開、そして作家としての東氏がどんなものを書いていくのかということをうかがった。 後編では、今後の事業展開の話題に関連し、SNSで突如発表されて物議を醸した社内体制の大幅変更

    なぜ組織をゼロから再構築しなければならなかったのか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【後編】|FINDERS
  • 「反新書」な思想史本/網谷壮介

    佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ 修道院の起源』 岡田温司『キリストの身体 血と肉と愛の傷』 堂目卓生『アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界』 新書というと手軽に読めるだと思って生きてきたが、中公新書はそうした浅はかな心持ちを挫く。軽はずみに購入した結果、途中で心が折れて積読している中公新書が10冊ほどある。はっきり言って読むのが大変だ。真面目すぎる感さえある。気軽に読めない。「反新書」的な新書が多い。とはいえ、そうした反新書には著者が膨大な時間と労力を費やした研究成果が惜しげもなくつぎこまれており、ブック○フで哀れなことに叩き売られていると、いたたまれなくなってつい買い占めてしまい、また積読が増える。怖い。 ここではそんな私が読み通せたほど面白い三冊、西欧の思想史に関心がある人ならグイグイ引き込まれ、妄想を掻き立てられてしまうであろう、反新書的三冊を選んだ。 佐藤彰一『禁欲のヨー

    「反新書」な思想史本/網谷壮介
  • 怪物か、悪の凡庸か--アイヒマンとハンナ・アーレント

    『隠れナチスを探し出せ』より 怪物か、悪の凡庸か--アイヒマンとハンナ・アーレント アーレントが一九六三年に『イェルサレムのアイヒマン』を出版するやいなや、批判の集中砲火が浴びせられた。検事たちは当然ながら、アイヒマンに関する彼女の意見に賛成しなかった。「彼は命令に従っていただけだというハンナ・アーレントの考え方はまったくばかげている」とバッハは言い切った。ジェノサイドに情熱を燃やしていると見られていたからこそ、彼はホロコーストの間中、公安組織のなかでユダヤ人問題を任されていたのだとも語った。敗色が濃くなり、上官がホロコーストの物的証拠を隠そうとしはじめてからずいぶんたっても、ユダヤ人を殺そうというアイヒマンの意欲は衰えなかったと。しかし、マスコミや公開討論会でアーレントに反撃したのはほかの人々だった。 先頭に立った一人は、ニュルンベルクでアインザッツグルッベン裁判の裁判長を務めたマイケル

  • 引用,メモ。ドゥルーズ=ガタリ「被知覚態、変様態、そして概念」 - 偽日記@はてなブログ

    ●引用,メモ。ドゥルーズ=ガタリ「被知覚態、変様態、そして概念」(『哲学とは何か』)より。 《小説はしばしば被知覚態(ペルセプト)に達している。たとえばハーディにおける、荒野の知覚ではなく、被知覚態としての荒野。メルヴィルの海洋の被知覚態。ヴァージニア・ウルフにおける都市の被知覚態、あるいは鏡の被知覚態。風景が見るのだ。(略)被知覚態、それは、人間の不在における、人間以前の風景である。しかし風景は、前提される〈登場人物の知覚〉から独立していず、またそれを介して、作者の知覚と想起から独立していないのだから、以上のすべてのケースにおいて、なぜそのように言いきってかまわないのだろうか。そして都市は、人間なしにかつ人間以前に、どのようにして存在しうるのだろうか。また鏡は、その鏡に映る老女がいなければ、たとえ彼女が鏡のなかの自分をみつめなくても、どのようにして存在しうるのだろうか。それは、(注釈され

    引用,メモ。ドゥルーズ=ガタリ「被知覚態、変様態、そして概念」 - 偽日記@はてなブログ