歴史と学びに関するroseknightのブックマーク (23)

  • The end of history

    Hanno SauerUtrecht University, Utrecht, NetherlandsCorrespondenceh.c.sauer@uu.nl View further author information Received 04 Jul 2021, Accepted 09 Sep 2022, Published online: 19 Sep 2022 ABSTRACTWhat credence should we assign to philosophical claims that were formed without any knowledge of the current state of the art of the philosophical debate and little or no knowledge of the relevant empirica

    The end of history
  • 「本能寺の変」で異例の大出世…農民出身の秀吉が「信長の後継者」になれた本当の理由 なぜ最強軍団・織田家はあっさり没落したのか

    なぜ羽柴秀吉は「信長の後継者」になれたのか。三重大学教育学部の藤田達生教授は「来であれば後継者に近いのは織田家の筆頭家老だった柴田勝家だったが、情報不足などの理由で、光秀討伐に出遅れた。この『空白の10日間』が勝家と秀吉の命運を分けることになった」という――。 なぜ秀吉が「信長の後継者」になれたのか 能寺の変から明智光秀が討たれた山崎の戦いの時期のこととして注目されてきたのが、羽柴秀吉による奇跡の「中国大返し」だった。 秀吉は、能寺の変の翌日にあたる天正十年(一五八二)六月三日深夜から四日朝までに、その正確な情報を得ていたようだ。ただちに対戦していた毛利氏との講和を結ぶや、上方めざして全力で進軍し、六月十三日の山崎の戦いで快勝したのである。 この行軍が「奇跡」といわれるのには理由がある。 第一が、変の情報をきわめて早く確保したことである。光秀の使者が誤って陣所に迷い込んだ、というのは

    「本能寺の変」で異例の大出世…農民出身の秀吉が「信長の後継者」になれた本当の理由 なぜ最強軍団・織田家はあっさり没落したのか
    roseknight
    roseknight 2022/06/19
    北国大返しから膠着状態に陥った優等生の柴田勝家と情報を操った機才の豊臣秀吉の違いが天下の分かれ目か。中国大返しを為した秀吉のインテリジェンスは、後の賤ヶ岳の戦いにも通じるだろう。私もこれに学びたい。
  • 源義経:壇ノ浦の戦いと腰越状の真実

    出所 : 各種資料をもとに筆者作成 / 数字は概数 義経は決戦に備え、着々と水軍を増強していた。紀伊(現在の和歌山県)の熊野水軍や瀬戸内海の渡辺党、伊予(現在の愛媛県)の河野水軍などである。 熊野水軍には、源氏と平家のどちらに与(くみ)するかを紅白の闘鶏によって占い、白が勝ったので源氏に付いたという言い伝えもある。だが、実は源頼朝の挙兵(治承4年8月)と歩調を合わせるように、反平家の立場を打ち出し兵を挙げている。平家旗色悪しと見て、事前に平家から離反していたのである。 さらに『平家物語』『源平盛衰記』は、平家方だった阿波(現在の徳島県)の民部大夫成良(みんぶだゆう・しげよし)が戦いの最中に突然、源氏に寝返ったのも大きかったと記しているが、屋島の戦い以降、四国はすでに源氏の支配下にあったのだから、内部崩壊の兆しも顕在化していたろう。 平家は、一ノ谷、屋島の敗戦後、壇ノ浦に追い詰められ内部崩壊

    源義経:壇ノ浦の戦いと腰越状の真実
    roseknight
    roseknight 2022/05/07
    壇ノ浦の戦いにおける潮の流れは終始穏やかなものだったのか。平家側には戦い続ける力が残っていなかったのだろう。腰越状の方は、執権を握った北条絡みで出来たのか?義経が検非違使に留任した理由を知りたい。
  • Chosun Online | 朝鮮日報

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    Chosun Online | 朝鮮日報
    roseknight
    roseknight 2022/02/01
    世界の文明は、海の交流を基に発展してきた。地中海だって、アラブを始めとした地域の影響を受けて成立した。近代以前に海洋勢力が大陸の秩序から外れて成立したことが、軍隊と海賊を交じらせたのか?興味深い話だ。
  • 日本の歴史上「大晦日が消えた年」 明治の改暦にともなうドタバタ | おたくま経済新聞

    roseknight
    roseknight 2021/12/31
    明治五年十二月の初め頃が六年元日になったのか。同月に関する経済の問題や実際の太陽暦との誤差に明治政府は悩まされた。時間軸のブレが天皇の誕生日や休暇への認識に大きな影響を与える。尤も文化の存在もあるが。
  • BLOGOS サービス終了のお知らせ

    平素は株式会社ライブドアのサービスを ご利用いただきありがとうございます。 提言型ニュースサイト「BLOGOS」は、 2022年5月31日をもちまして、 サービスの提供を終了いたしました。 一部のオリジナル記事につきましては、 livedoorニュース内の 「BLOGOSの記事一覧」からご覧いただけます。 長らくご利用いただき、ありがとうございました。 サービス終了に関するお問い合わせは、 下記までお願いいたします。 お問い合わせ

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    roseknight 2021/08/19
    現代の名前の在り方は大政奉還による朝廷の復権の上にある。背景には戸籍制度の存在もある。夫婦別姓の議論では苗字の定義を再確認せねばならないのかな。一系的な考え方が通用しないことは確かである。
  • 「西郷隆盛は西南戦争に勝つ気がなかった」論の意外すぎる根拠とは?

    ダイヤモンド社書籍編集局が、話題の1冊を取り上げ、書き手・作り手の思いや、のメッセージなどを深掘りして紹介する。 だから、この。 ダイヤモンド社の話題の1冊を取り上げ、書き手・作り手の思いや執筆動機、読んでほしい理由を深掘りするインタビュー連載。著者・訳者・デザイナー・編集者など、に関わるさまざまな人たちの「だから、このを書きました」「作りました」をお届けします。連載の詳細・記事一覧はこちら。 バックナンバー一覧 地理とは「地球上の理(ことわり)」である。この指針で現代世界の疑問を解き明かし、ベストセラーとなった『経済は地理から学べ!』。著者は、代々木ゼミナールで「東大地理」を教える実力派、宮路秀作氏。日地理学会企画専門委員会の委員として、大学教員を中心に創設された「地理学のアウトリーチ研究グループ」に参加し、精力的に活動している。2022年から高等学校教育で「地理総合」が必修科

    「西郷隆盛は西南戦争に勝つ気がなかった」論の意外すぎる根拠とは?
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    roseknight 2021/06/24
    海路が選ばれなかったことを考えると、西郷隆盛には元々新政府を倒すつもりは無かったのかな。本人は大久保利通の方針には大反対していた筈だが。「自らの時代の役目の終わり」とは何かが少し気になる。
  • 伏見城  鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦 - 京都案内  こうへいブログ  

    激戦地 伏見城 慶長5(1600)年、関ケ原の戦いに突入するころ、京都・木幡山にある伏見城は、前哨戦とされる激戦地になっていました。 徳川家康がその生涯で最も信頼したという老臣・鳥居元忠(もとただ)。 その元忠を総司令として伏見城を占拠する東軍、それに対して、襲撃したのは石田三成に統率された西軍でした。 つまりこの時、伏見城を占拠していたのは家康であり、秀吉の臣下だった三成が攻撃を仕掛ける側だったのです。 今後、守備の要となるであろう伏見城を重要視していた家康は、極めて有能な家臣たちを元忠の補佐として宛てがっていました。 内藤家長と、その息子元長、さらに松平家忠、松平近正といった超一級クラスの武人を選んで防衛にあたらせ、万全の体制でそなえていたのです。 友よ 家康が京を離れる前夜、伏見城で家康と元忠は、二人でしみじみと酒を酌み交わしていました。 この時、元忠は顔では笑いながらも、「軍に存

    伏見城  鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦 - 京都案内  こうへいブログ  
    roseknight
    roseknight 2021/06/12
    他者の気持ちを読み取れない点が鳥居元忠の一番の敗因では。謀略への弱さ等を考慮すると、本人は司令官の立場に向いていなかったと思う。徳川家康自身が伏見の守りに当たれば、歴史は大きく変わっただろう。
  • 徳川慶喜はなぜ敵役になったのか 情けを知らぬ「独公」の強さと弱さ

    徳川慶喜についての一般的な認識は、「徳川15代目、最後の将軍」「大政奉還をした人」の2つではないだろうか。それを思うと、放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で草なぎ剛が好演する徳川慶喜は、幼少時から英邁と評判で決断力がある意外な姿に見えているかもしれない。ただ一方で、鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡した「臆病者」という誹りを受け、歴史的には評価の分かれる人物だった。大政奉還という歴史の転換点をつくりながら、なぜ彼は敵役になり果てたのか、歴史学者の家近良樹氏が解説する。 * * * 安政5年(1858年)に幕府がアメリカをはじめ5か国と結んだ通商条約は朝廷の勅許を得られていなかった。慶応元年(1865年)10月4日、開国派の慶喜と攘夷派の公卿が出席した朝議(朝廷での評議)は懸案だったその条約勅許問題を巡って紛糾し、夜も更けた。そこで公卿たちが散会しようとすると、慶喜がこう畳みかけて凄んだ。 「この

    徳川慶喜はなぜ敵役になったのか 情けを知らぬ「独公」の強さと弱さ
    roseknight
    roseknight 2021/06/10
    我が道を行こうとする性格が徳川慶喜にあったのだろうか。やはり、本人は様々なコネが絡む政治には向かなかったのでは。それでもリーダーシップの強さには敬服する。彼の哲学に学ぶべき点は少なくないと思う。
  • 本能寺の変 光秀vs秀吉の派閥争いがクーデターに|みがく経営|日経BizGate

    記事保存 日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。 天正10年(1582年)6月2日早朝、明智光秀は京都・能寺に織田信長を奇襲した。「能寺の変」だ。日史のなかでも真相が謎に包まれている出来事の一つだが、最新研究では、織田軍団内における重臣間の派閥抗争の影響が光秀のクーデターに結びついたと指摘されている。いわば役員間の争いが、巡り巡ってクーデターを引き起こし成功した形だ。現代の企業社会にも通じるガバナンス(統治)の死角を藤田達生・三重大副学長に聞いた。 「トップとの距離」先行する光秀、巻き返す秀吉 ――最新編著の「織田政権と能寺の変」(塙書房)では羽柴(豊臣)秀吉と光秀の派閥争い、絶対的なリーダーとみられていた信長も軍団長クラスの相互バランスを利用して統一政策を進めていった経緯を研究しています。 「織田政権のパワーの源泉は

    本能寺の変 光秀vs秀吉の派閥争いがクーデターに|みがく経営|日経BizGate
    roseknight
    roseknight 2021/06/02
    機内を担当した光秀と近習や若手らとの齟齬や足利幕府の残影が本能寺の変の一因か。光秀は信長の専制化に内心反発していたのかも知れない。加えて豊臣秀吉にも信長に似た点がある。保守と革新の衝突が事の本質か。
  • 実は両者ミスだらけ?本当はこうだった「鳥羽伏見の戦い」勝利の影に隠れた意外な真相とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    はじめに 一般に流布されている通説と現実との乖離が大きい幕末維新史のなかでも、戊辰戦争の発端に関することは、最も誤解が多いと思います。 戊辰戦争の「戊辰」とは、慶応4年=明治元年の干支で、この年の正月早々に大坂から北上した旧幕府軍と、京を根拠地とする新政府軍とが激突した、鳥羽伏見の戦いをもって「開戦」とみなしています。 しかし、その年越し前に発生した江戸薩摩藩邸焼き討ち事件も、旧幕府側は正規軍を動員して軍事行動をとっているため、事実上の開戦だと考える研究者もいます。 それはさておき、一般に認知されている通説とは、学術的に確定された定説のことではありません。この記事では、誤解に基づいた通説によらず、学術的に正しいことを書いていきます。 また、鳥羽伏見の戦いをもって戊辰戦争勃発とします。このとき旧幕府軍が宣戦布告に相当する、薩摩藩討伐の趣旨を述べた「討薩ノ表」を携えていたからです。薩摩藩邸焼き

    実は両者ミスだらけ?本当はこうだった「鳥羽伏見の戦い」勝利の影に隠れた意外な真相とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
    roseknight
    roseknight 2021/06/02
    江戸における御用盗や江戸城放火を考えれば、佐幕派の足並みは揃っていなかったと思う。徳川慶喜は政治や外交には向かない人だったのでは。滝川具知の独走や朝廷の新政府側への傾斜で旧幕府の壊滅は決まったな。
  • 実力つけても幕府は冷遇「徳川慶喜」不興買う理由

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    実力つけても幕府は冷遇「徳川慶喜」不興買う理由
    roseknight
    roseknight 2021/05/23
    朝廷と幕府との不仲が慶喜を一番苦しめたと思う。本人は聡明だったが、政治に向かない人だったのでは。慶喜が一貫として将官の立場に居れば、歴史がまた変わっただろう。惜しい人物を失ったものだね。
  • なぜ光秀は信長を殺したのか? 定説からトンデモ説まで「動機」と「黒幕」徹底分析 | AERA dot. (アエラドット)

    能寺境内にある織田信長をまつる「信長公廟」。2012年撮影(c)朝日新聞社 邪馬台国の所在地、坂龍馬暗殺の真相と並び、日史上最大の「謎」の一つとされる能寺の変。古今、真相として様々な説が唱えられてきた。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 13』では能寺の変と明智光秀の最期を徹底分析。ここでは事件の「動機」と「黒幕」をめぐる諸説をすべて網羅、論考する。 【信長殺害「犯行動機」定説&トンデモ説「全19説」はこちら!】 *  *  * 能寺の変とは、明智光秀による主君織田信長の殺害事件である。殺害には、何らかの動機があったはずだ。しかし、その動機が明確ではないことと、天下人の殺害という大事件が、なぜいとも簡単に成功したのか、そして、なぜ光秀はわずか11日で羽柴秀吉に敗れたのかがわからないこと、この三つの大きな「謎」があるために、能寺の変をめぐってはさまざまな「説」が提唱されてきた。

    なぜ光秀は信長を殺したのか? 定説からトンデモ説まで「動機」と「黒幕」徹底分析 | AERA dot. (アエラドット)
    roseknight
    roseknight 2021/05/23
    織田信長との方針の齟齬による地位不安説には、折檻等の怨恨説や細川への言及も含まれるだろう。信長政権の親縁化を考えれば、光秀の親戚の影響も考えられるのでは。本能寺の変の原因には血縁や外国勢力も関わるな。
  • リンカーンではなかった? 米大陸初の奴隷解放宣言

    米国の独立戦争のさなか、独立を求める大農園主のもとから逃げ出し、英国軍に保護されるアフリカ人奴隷たち。(GRANGER) 1775年、北米東岸にあった英国の13植民地が、国からの自由を求めて武器を取った。米国の独立戦争の勃発だ。ただし、その戦いに参加していた黒人兵のうち数百人は、英国の敵としてではなく、味方として戦っていた。 「奴隷に自由を(Liberty for Slaves)」と書かれた肩帯をつけていたと言われる「エチオピア連隊」(エチオピアという言葉は黒人の意味で使われていた)だ。黒人兵たちは、自由を勝ち取るという決意のもと、かつての主人たちに反旗を翻した。 彼らが戦いに参加した理由は、米大統領エイブラハム・リンカーンによるかの有名な宣言よりも100年近く前に提示された、米大陸初の奴隷解放宣言だった。 植民地の富を支えた奴隷 アフリカ系の人々が東海岸のバージニア植民地にやってきたの

    リンカーンではなかった? 米大陸初の奴隷解放宣言
    roseknight
    roseknight 2021/05/06
    ダンモア卿はバージニアの大農園主らと何か対立点を抱えていたのだろうか。本人の創ったエチオピア連隊の基であった解放宣言は後の南北戦争の伏線になったのでは。奴隷制に対する考え方の変遷を知りたい。
  • 【出口治明】間違いだらけのイスラーム教!日本人は、なぜこうも誤解してしまうのか?

    1948年三重県生まれ。京都大学を卒業後、1972年に日生命保険相互会社に入社。企画部や財務企画部にて経営企画を担当するとともに、生命保険協会の初代財務企画専門委員長として、金融制度改革・保険業法の改正に従事する。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て、同社を退職。2006年に生命保険準備会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年の生命保険業免許取得に伴い、ライフネット生命保険株式会社を開業。社長、会長を10年務めたのち、2018年より立命館アジア太平洋大学(APU)学長。2024年より現職。 哲学と宗教全史 世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した“現代の知の巨人”、 稀代の読書家として知られる出口治明APU(立命館アジア太平洋大学)学長。 歴史への造詣が深いことから、京都大学の「国際人のグローバル・リテラシー」特別講義では 世界史の講義を受け持った。 その出口学長が3年を

    【出口治明】間違いだらけのイスラーム教!日本人は、なぜこうも誤解してしまうのか?
    roseknight
    roseknight 2021/05/05
    決まった聖職者がおらず、新入りをすぐに仲介出来る気軽さがイスラム教の強みなのか。ただ権威の曖昧さがシーヤ派とスンナ派の抗争の要因にも見える。後、廃仏毀釈とイスラム国との考え方が合うかは疑問である。
  • 「白米好きの日本人」を襲ったヤバい病気の正体

    米を主にする国々の中でも、日人ほど品種や炊き方にこだわる人々も少ないと言われている。わたしたちが普段べるうるち米だけでも、のべ440品種以上が登録(平成29年度)されているというから驚く。 最近は健康面を考えて白米に玄米や雑穀を混ぜて炊く家庭も増えているが、やはりべておいしいのは白米だけで炊いたご飯、すなわち白ご飯だ。炊きたての白ご飯に味噌汁とぬか漬けの一品でもあればあとは何もいらない、という人も少なくない。 かつては「ごちそう」だった白ご飯 そんな日人になじみ深い白ご飯だが、一体いつごろからべられているのか調べてみると、意外なことがわかった。実は一部の大都市圏を除き、常するようになったのは明治時代に入ってからなのだ。 たとえば江戸時代、江戸に住む人たちに限っては長屋暮らしの八っつあん熊さんたちでも日に3度、白ご飯をべていたが、一歩江戸の郊外に出ると、米農家であっても作った

    「白米好きの日本人」を襲ったヤバい病気の正体
    roseknight
    roseknight 2021/03/07
    江戸の白米食は労働環境や食習慣によるものか。ビタミン不足による脚気は明治時代の陸軍も苦しめてきた。尤も、糠からビタミンが判明したのが日露戦争の後故に森鴎外の失策も仕方の無い面もあるのだろうが。
  • なぜ秀吉は備中高松城を水攻めしたのか? 中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(中編)【JBpressセレクション】 | JBpress (ジェイビープレス)

    能寺跡。能寺の跡地はすっかり住宅地となっており、石碑のみが事件の現場であったことを伝えている。撮影/西股 総生 (城郭・戦国史研究家:西股 総生) JBpressで掲載した人気記事から、もう一度読みたい記事を選びました。(初出:2021年2月9日)※内容は掲載当時のものです。 ◉ 中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(前編) 豊臣秀吉と毛利輝元の攻防 (前回から)備中高松城攻め・能寺の変・中国大返しについての事実関係を整理してみよう。まず、城攻めという戦闘形態は、双方の作戦や思惑やぶつかりあった結果であって、ある日突然起きるものではない。高松城の水攻めもそうである。 もともと、備前・備中の国境地帯において、織田方(秀吉&宇喜多軍)と毛利方との間で、さまざまな戦術的駆け引きが展開し、劣勢に回った毛利方が、結果として高松城に押し込まれてゆく戦況となったため、秀吉は高松城を囲んだのだ。

    なぜ秀吉は備中高松城を水攻めしたのか? 中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(中編)【JBpressセレクション】 | JBpress (ジェイビープレス)
    roseknight
    roseknight 2021/02/09
    全ての実務権限を統括した豊臣秀吉の戦略は明智の謀反への対処に役立った。備中高松城を封鎖して光秀、信長の救援を待つのための水攻めも本人の迅速な判断の要因か。細かい処置を怠らないことが出世の元かな。
  • 信長を窮地に陥れた〈信長包囲網〉。将軍・足利義昭の策謀とふたつの幕府【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    広島県福山市津之郷にある惣堂明神社のご神体として祀られている足利義昭神像。 足利義昭は天正13年(1585)~同15年(1587)までこの付近に居住したといわれる。 『麒麟がくる』後半戦で注目されるのが、室町幕府15代将軍足利義昭(演・滝藤賢一)。過去には『国盗り物語』(1973年)では伊丹十三、『秀吉』(1996年)では玉置浩二が演じたキーマンの一人。足利義昭の動向が物語の行方を左右するといっても過言ではない存在だ。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が、織田信長と足利義昭の蜜月から破綻までの関係をリポートする。 * * * 永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たした。尾張の一大名に過ぎなかった信長が、「天下人」への道を歩みだした、そ

    信長を窮地に陥れた〈信長包囲網〉。将軍・足利義昭の策謀とふたつの幕府【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
    roseknight
    roseknight 2021/01/24
    足利義昭が中核である、室町幕府秩序維持を目的とした信長包囲網は織田を苦しめた。織田家の重臣が派閥抗争や信長の専横に悩まされたことは間違いない。明智光秀には黒幕も野心も無い。謀反の理由はまだ不明か。
  • 日本人が知らない裏歴史…江戸時代、幕府が「ミイラ」を大量輸入していたワケ(週刊現代) @gendai_biz

    「日医学」の発展の陰で 江戸時代、幕府が鎖国を行い、自国の支配を強固にしたことは周知の通りだ。しかしこの間、完全に海外との交流を断絶していたわけではない。幕府はいわゆる「四つの口」と呼ばれる、長崎の出島、対馬、薩摩、松前の地で貿易を行ってきた。 当時の輸入品の大部分は生糸や絹織物で占められていたが、それ以外に一風変わった代物もあった。例えば、享保13(1728)年に時の将軍、徳川吉宗が中国の商人から取り寄せた象などは有名だろう。 だが、奇妙な輸入品は他にもある。江戸中期以降、西洋医学の研究が盛んになると、伝統的な漢方医学と融合し、日医学は独自の発展を遂げるようになった。 その過程で海外から様々な薬が輸入されたのだが、その中には、なんと「ミイラ」があったのだ。 当時、薬学に精通していた学者の貝原益軒が編纂した書物に『大和草』がある。同書では日内外の1362種の動植物・鉱物の効能がまと

    日本人が知らない裏歴史…江戸時代、幕府が「ミイラ」を大量輸入していたワケ(週刊現代) @gendai_biz
    roseknight
    roseknight 2021/01/23
    ミイラに施されていた防腐剤の主成分である、滋養強壮に効果的なプロポリスが江戸の万能薬の正体か。死後の世界へ発ったエジプト人としても役に立てて光栄かな。日本がどうやってミイラを輸入したのかが気になる。
  • 歴史作家が選ぶ2020「歴史の新発見」重大ニュース 人類史編

    新型コロナウイルスの世界的流行に翻弄された2020年が終わろうとしている。今年も歴史学・人類学上の新たな発見が日や世界で相次いだ。歴史作家の島崎晋氏が、2020年に明らかになった人類史上の重要な新発見を厳選して紹介する。 * * * 今年は全世界的に移動制限がかけられたことから、考古学的な発掘を始めとする現地調査・取材は低調に終わったが、それでも歴史の解明につながる重大な発見がいくつもあった。 アフリカにもネアンデルタール人がいた 人類の祖先に関する定説はほんの数年で訂正される。なかでも「サハラ砂漠以南のアフリカ人にネアンテルダール人の遺伝子は存在しない」との説はその好例だろう。 今年1月に学術誌『セル』に掲載された米プリンストン大学の遺伝学者ジョシュア・エイキーの論文で、アフリカ人にもネアンデルタール人のDNAが確認されたことで、現生人類の足跡がアフリカから外に出るだけでなく、その逆の

    歴史作家が選ぶ2020「歴史の新発見」重大ニュース 人類史編
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    roseknight 2020/12/29
    アフリカにおけるネアンデルタール人の存在、アナトリアから来たイベリアの人間と面白い話だ。化石を調べることで当時の地域情勢も分かる。人類は世界各地で発生して混在し合ってきた。各種人類のルーツを知りたい。