Togetter:私たちは勉強がキライです内の以下の発言について。 だから、どうか学歴の高い人達よ、私を含める「普通の人」が学ばないことを攻めないで。私たちは勉強がキライです。どうしたら勉強したい気持ちになるか、そこも教えてほしいなー。(゚∀゚) (Twitter: ぶたやまより) 違う。話し手は正直たくさんいるの。プロ、アマ問わず。問題は、学びたいと思うモチベーションをあげにくくなっていること。大事なことが浸透しないまま、関心がなくなりつつあることなのよ。勉強なんかしたくないんだよ、みんな。 (Twitter:ぶたやまより) 私たちは「外部から強制される」勉強がキライです。なら、ほぼ、人類すべてに当てはまる命題だと思う。パチンコ・パチスロ好きな人は、勝手に情報収集して、台の攻略法を検討、考案したりするけど、パチンコ・パチスロやらない人はそういうことやる気にならないし、やりはじめても挫折す
スキーマ 認知心理学では、物事を理解するために利用される知識の枠組みのことをスキーマ(schema)と呼ぶ。人は様々な経験の中で様々なスキーマを形成する。そして、話題によってさまざまなスキーマを切り替えてもいる。特に難しい話ではなく、誰もが無意識にやっていることだ。そして、何かを理解するためには必ず必要なことですらある。 なぜならば、理解に必要な情報が十分そろっている物事など、まずないからである。親しい家族との日常会話でも、僕らは家族の持つ前提知識やこれまでの言動を元に意味を推測する(つまり、スキーマを利用する)。そういったものが全くない他人の場合、真意を理解するのは難しい。 新しい分野の本を読むときにスキーマの存在を感じる人もいるかもしれない。その分野の1冊目に読む本はゆっくりとした速度でしか読めないが、5冊や10冊ぐらい読むと、非常に早く読むことができる。これはその分野についてのスキー
千葉バスジャック事件を通した「情報発信」について - Togetterまとめ リンク先では、先日の千葉バスジャック事件のネット実況について、当事者を交えたディスカッションが行われている。これを読んで、現在のインターネットでは「何を書かないか」が重要だと改めて痛感した。 実際にバスジャックの現場に遭遇した arabian_m さんは、当時について以下のように述べている。 後述しますが、「ぼくが書きこんだことによって惨事を招く可能性」についてはある程度考慮していました。ただ、「SOS」について書いたことは犯人の運転手への逆上を招く危険性がゼロとは言えなかったと思います。 2011-11-16 23:30:07 via web で、これをどこまで言っていいのか迷うのですが・・・。もう解決しているので詳細を省いて説明しますと、ぼくの位置からは警察が突入準備しているのが見えていました。 2011-1
「発声練習」さんのブログ http://d.hatena.ne.jp/next49/ 「他者が検証しやすい形で情報を提供している人はまともな可能性が高い」と考え、どんなに偉い人、実績のある人でもこの条件を満たしていない人はとりあえず、退けておけば良いと思います。 この意見に強く同意する。「発声練習」さんが指摘されているとおり、人は間違えるし、自分の見たいものしか見ない傾向がある。したがって、間違っていないかどうか、また大事なポイントを見落としていないかどうかについて、第三者による検証がとても大事だ。 科学者は、自分の専門分野について論文を書くときには、自分の主張を自分でも厳しくチェックするし、論文の審査過程で、第三者による厳しいチェックを受ける。しかし、専門外のことについて(あるいは、時として専門のことについてすら)、インタビューなどで間違った見解や偏った見解を語ることがしばしばある。 間
熊森協会だけが特別に批判されるべきと思えないのだが - 法華狼の日記と熊森だけじゃないほかも問題だ!・・・それで?誰に向けてるの? - ならなしとりを続けて読んで「うーん」と唸ってしまった。 前者の主要な論点は次の段落から読み取ることができる。 つまるところ、野生動物への餌付けに問題性があるという考えが共通理解されてないだけではないのか。猿に餌をやっては駄目だという報道や、その結果として猿が人の餌を狙うという報道は単発的に存在しても、たとえば日常風景で野鳥に餌をやったりする姿は好意的に報じられるだけで慎重さを注意されることはない。 見出しだけを見れば、日本熊森協会擁護と受け止められかねないが、本文をきちんと読めばそれが誤解だとわかるように書かれている*1。たとえば、 熊森協会も、とりあえず熊の折り紙でも折ってみたらどうだろうと思う。紙がもったいないなら不要なチラシでも使えばいい。 これなど
貴方は勉強不足です、そんな言葉は恐ろしくてとても書けやしない。 特定の分野について専門家としての発言なら可能だけど、自分の専門分野外なのに、よく知らないヒトに対して勉強不足だなんてどらねこには無理で御座います。 なぜなら、そのヒトの事を十分に分かっていないだろう人間が『貴方は勉強不足だ』なんて垂れ流す事自体が世の中のことを勉強できていないと見なされ兼ねない程の非常識だから。 私だったらそうしなかった、だから貴方は其処までやるべきだった、期待にこたえるべきだった・・・て、いつの時代のお話だい? 自分が出来るからって相手も出来るとは限らないし、それを平気でヤレというのはどんな暴力だい? 教育の現場ではこのような思想は早いところ退場して貰いたいモノだ。それが期待に応えられない哀れなどらねこの願いです。
@ublftbo リクエスト頂いたので、引用します。引用元は、クラーエ[著]、秦・湯川[編訳]『攻撃の心理学』1ページ。「第1章 攻撃の定義と測定」より。かなり長いですが、重要なのでまるごと引きます。 2010-12-23 19:52:47 @ublftbo 引用始め 「 この章の目的は,これから攻撃の社会心理学的研究について論議していくための前提として,2つの基本的な問題について検討することである。第一は,われわれのキー概念である攻撃という言葉の意味を定義して,この概念に含まれる現象を明らかにしなければならないことである。」(続く○ 2010-12-23 19:55:21 @ublftbo ○続き)「ある行動が攻撃として分類されるべきかどうかを決める基本的な規準についての統一見解を示すこと,および攻撃行動の多様な現れ方を理解するために,異なる攻撃形態の類型を示すことが重要である。第二に,
はじめに結論から書いておこう。「国家が暴力を独占する」の意味は、国家が自らの暴力の行使に対してのみ、正統性を付与するということである。国家というのは、征服によるものであれ、共和主義的な統合によるものであれ、その集団がある領域内を実効支配した時点で、定義上、その領域内には少なくとも国家に匹敵しうるような暴力を行使可能な集団は存在していないはずである。だが、国家はなお支配のために「暴力を独占」する。それは、自前の暴力組織にのみ正統性を与えることによってであって、そうやって正統性を与えられた暴力組織を「軍隊」や「警察」と呼ぶ。ウェーバーによればその正統性の源泉は、近代国家においては「合法性」である。その正統性(=合法性)に基づいてはじめて、政府は国家内の自律的な暴力集団を規制したり弾圧することができるのである。 軍隊や警察は、人を殺しうる力を持っている。たとえ侵略軍から「国家を防衛」するためであ
妻から言われたことをいくつかツイッター(URLはこちら)で紹介したのですが、 予想に反してかなりの反響がありました。 そんな「妻語録」を一度まとめてみました。 2010/06/03 07:44 かつてネトゲで数十人を率いていたという妻「相手が欲していることは何で、どうやったらモチベーションを高く持ってくれるかを必死に考え抜くの。そうしたら勝手にみんなが動いてくれる。それがマネジメントだよ。やってないから帰りが遅いんじゃないの?」…代わりに会社に行ってもらえませんか? 2010/06/04 07:46 (再掲)近所の豪邸の前で「ここの家主と僕との違いは何なんだあ!」と嘆いていたら、妻が「今まで背負って来たリスクの差じゃない?例えば受験勉強を頑張ると、落ちたら努力が無駄になるというリスクを背負うんだよね。遊んでいればリスクもないけど合格しない。そういうこと。」 2010/06/08 23:46
北村雄一(北村@) イラストレーター兼ライター 詳しくはhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~hilihili あるいは詳細プロフィール表示のウェブページ情報をクリック 詳細プロフィールを表示
雑記『何で人を殺してはいけないのですか?』という質問をする子供と、それに答えられない大人、という例がセンセーショナルに引かれ、それに対して道徳の崩壊云々を言う似非保守さんや、それに対して、頭ごなしに道徳を強調するのではなく、もっと理性的に人道をとくべきとするリベラルさんが新聞やテレビなどで論戦したのは、もう一昔も前のことになったのだろうか。さて、上のような質問だが、人を殺すことがどんな時でもいけないことであるということを強調する社会でないと、なかなか上のような疑問の形を取ることはないのだろうな、と思う。実際は、人間の社会は人殺しを完全に否定はしていない。どの社会も、条件付で人殺しを肯定している。例は、戦争、死刑、殺害に対する報復、中絶、間引き、障害児殺し、姥捨て山などである。要はそれを認めてもその集団の秩序維持(構成員多数の利益と観念されるものや、支配者の利益)に支障がなければ、ましてそれ
以下は http://h.hatena.ne.jp/manysided/9236557630630465306 への反論。 ハイクで応答しようと当初は思ったけれど、長くなったし大事な論点も含むのでエントリという形にしますにゃー。 応答します>id:manysided 前回のエントリでも書きましたが、宗教権力というものは「善」を他者に求めるものだといえるでしょう。それに対して、他者危害行為を禁じるのが自由主義における世俗的な権力です。他者に対して善を求めることと悪を禁じることには大きな違いがあります*1。 なぜなら、善というものは人によってさまざまな形をとるものだからです。それに対して、危害というものはある程度客観的に定めることができます。 はてこ氏の議論は、「良心」を他者に求めるものでした。 これは基本的に宗教のロジックです。自らの信ずる「善」「良心」を他者に求める論法に対しては、「僕には
科学的合理性の判断と、政治的合理性の判断は、明確に分離すべきなのだろうね。 先日こんなエントリを読んだ。 リスク社会における公共的決定2――「トンデモ」批判の政治性と政治の未来 - on the ground 似たような感想の人が他にもいたけれど、私のこのエントリに対する感想は、 ネタなのか本気なのか、天然なのか釣り針なのか判断に迷うなあ、というもの。 1.に概ね同意し、2.でお茶を吹き、3.でネタなのか本気なのか判断に迷ったというのが正直なところだろうか。 元エントリでは「科学」という言葉をかなり特殊な使い方をしているので、 自然科学系の人は多分ツッコミの一つや二つ入れたくなるだろうけれど、 問題意識そのものは多少分かるだけに、面白いとは思う。 とりあえずいくつか見ていこうか。 2.ナイーブな実証主義の問題点 残念ながら、いわゆる「ニセ科学」や「俗流若者論」などの「トンデモ」論への批判論
今日は少し、色々な文脈を縫い合わせるようなお話をしてみたいと思います。例によって長いですが、ご関心の向きはしばしお付き合い下さい。 1.立場で争うことの不毛 あなたは、目指している方向性や考えそのものは大して違わないのに、感情的対立や形式的な事柄(手続き、名称、身分、肩書き、…)に発する食い違いなどのため、相手との合意に結び付かない、といった経験をしたこと(あるいは見聞きしたこと)は無いでしょうか。友人や恋人との間で、家庭で、学校で、職場で、地域で、複数の人が何らかの関係を取り結んで事にあたろうとする場面において、これは往々にして発生する事態であると思います。「合意など必要無い」と独力で目的を達成できる人であれば問題ありませんが、多くの人にとっては、広く合意を取り付けておくに越したことはありません。 円滑な合意形成を図るにはどうしたらよいか。この点について研究を行っている交渉学では、「立場
貧乏などらねこは、スーパーの精肉コーナーでは真っ先に赤いシールを探してしまう。 『レジにて表示価格より30%引き』 ラッキー! 店員さんがシールを貼ったその瞬間に100円だった商品は70円で購入可能になるのである。 値引きシールはそれぐらい凄まじい威力を持っているものなのだ。 元スーパーマーケット社員であるどらねこが、個人的な経験と知識を元に適当に書き散らかしてみる。全国的なスーパーで同様な事が行われているという話ではありませんので、誤解の無いように。 値引きシールは強力だから、値引きシールが貼られる瞬間を待つハンターさんもいらっしゃる。ハンターの挙動も様々で、店員を獲物のようにつけ回すストーカータイプや、物陰からそっと覗くような待ち伏せタイプ、店内をうろうろする徘徊タイプなど個性的で面白い。 うぜーのはストーカータイプなんだけど、一定の距離を置いてくれるハンターはまだ良いが、息がかかるよ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く