譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ 今月の座談会御書は別名『雷門鼓御書』の一節です。当抄は夫の阿仏房を身延の大聖人の許に三度送り出した妻の千日尼の信心を称賛されてる一節です。この御文は顕正会・浅井がインチキ遥拝勤行を正当化する御文としても有名です。創価的には、「池田先生と直接会うことが大切なのではなく、師匠の心をわが心とする師弟不二の云々」という男子部的な講義か、「家族が学会活動に出かけることを喜んで留守番する人の功徳云々」という少年部的講義が二本柱になる一節ですね。どっちも創価流のインチキ講義ですけでけどね。本文で言われている『心』とは当然『信心』です師弟不二の心じゃないです。さて