こころ「物理的に無理です」 *1 という言葉を覚えてから仕事が楽になった。急ぎではない仕事を積んだままにすることがあまり辛くなくなったという、たったそれだけのことなのだが。以前は仕事を積んでおくことは屈辱であったし、罪悪感が酷かった。それは無能のやることであると思っていたし、だからこそ仕事を積んだままにしておくことにひどく苦痛を感じていた。最近になって、自分にはできないことがある、残念ながら私は "someone" ではないと、諦めがついたらしい。それだけのことだ。考える頭はひとつしかない。動かす手は二本しかない。時間は有限である。そういうもろもろの制約というものが必ずある。それは動かしようのない事実であるから、困る人がいないうちは積んでおいても別によい。誰も困らない。私は無駄な頑張りをしなくていい。みんなそれなりに幸せ。思えば以前の私というのは、「自分にはできないことがある」という事実の
「新宿駅最後の小さなお店ベルク 個人店が生き残るには?」 発売されたのは2008年だが、このベルクというお店そのもののキャラクターと同じように、この本も長く親しまれ売れ続けてるようだ。ベルクは新宿駅にある立ち飲み&セルフ形式の個人店。もともとはコーヒー主体だったが、ビールやワイン、日本酒まで店主の趣味やお客さんの要望にあわせてメニューが拡大されてきて、今のような他にないユニークなビア&カフェという形態を確立した。 家主であるルミネとの立ち退き騒動で、たった15坪の小さなこの店の営業継続に1万人以上の署名が集まったことでも話題になっていたのでお店に行ったことはなくてもこの店の存在を知っている人は多いのではないだろうか。(1万人が怒りの声を上げた『ベルク』立ち退き騒動とは? – 日刊サイゾー) 今もルミネとの話し合いは続いているようだが、状況は良くない。まだ、営業は続けられてはいるものの、BE
詩を書いていないから詐欺師になれなかった一年が過ぎた。 空の蒼さは冬の夜のもので、シャガールの空だと云ったのは若い女だった。 降らなかった雨が乾いた路を、凍えた足で滑っている。近づいて、遠ざかる、蒼い雪。 面会室の硝子越しに現れた男はまるまるとふとっていて、「FBI」と胸に大書されたトレーナーを着ていた。 書いたものを読んでもらいたい、大勢に読んでもらいたい、と男は繰り返して、お前だけが頼りだとか云われたら嫌だな、と思っていたら、お前だけが頼りだ、と男は云った。 何かいい仕事はないか、と男に訊きかけたが、やめた。 ひとつになる、という幻想を額の上に乗せるとき、闇を背景にした蛞蝓の交尾がぼんやりと浮かび、黄味を帯びた乳白色が溶けて拡がると、緩やかに細胞がほどけていき、核をもった原子に分かれ、ふざけたように衝突して薄い熱を帯びながら、誰とも融け合っていないのだと、闇にばらまかれて眼が覚めたもの
天才と秀才の違い 天才はなぜ天才足りえるのか?秀才はなぜ秀才の壁を超えることができないのか?それはフォーカスする場所が違うからである。天才は、モデリングに焦点を絞り、秀才は最適化に焦点を絞る。 学校で学習することは、すべて事象のモデリングモデルを学び、最適化の手法を学ぶことである。つまり、既存のモデルを学び、そのパーツの上で最適化手法を学ぶ。以下にその最適化度を上げ、そしてその最適化を早くできるかということまでしか、学校では学習出来ない。何故ならば、評価のコストが大きすぎるからだ。 秀才は既存の道を最適化し、天才は新しい道を探す。結果は大小で示すことができるが、行うための手法が全く別のものとなる。 最適化は限界がある 最適化には、限界がある。それがサラリーマン巡回問題のように計算量が必要だというのならば、単に計算量を増やすだけでとけてしまう。それはたしかに、解ければそれだけのメリットは増や
胡錦濤訪米が話題。まあ、わからないではないが、各紙社説とも論点がほとんどない。米国での歓待ぶりもいまひとつぴんと来ない。 余談だが、習近平の娘はハーバード大学だったかにいるらしい。もちろん変名。このあたり、ベイサイドでいろいろ配慮する組織があるのだろう。まあ、ヘンテコに考えるとまたおバカな陰謀論になるけど、このあたりの歴史、つまりアラブ諸国の王子様とかまとめてしりたいなとは思うが、なかなか情報は出てこない。
永井豪氏はクトゥルー神話の影響を受けているや、否や−−。 時折、このようなやり取りを見聞きすることがあります。 日本の若い本読みに「クトゥルー神話」というものを周知させるにあたって大いに功績のある栗本薫氏の伝奇SF小説『魔界水滸伝』の挿絵を永井豪氏が担当されたことはこの際、脇におくとして。ここで言う「影響を受けている」というのは、『魔王ダンテ』『デビルマン』などの悪魔にまつわる作品を執筆するにあたり、永井豪氏がクトゥルー神話を参考にしていたかどうか−−その点に関心が集まっているということです。 『魔王ダンテ』『デビルマン』は共にユダヤ教/キリスト教的世界観における神と堕天使(悪魔)の闘争をテーマにしているのであって、クトゥルー神話は関係ないのではないかと思われる向きもあるかも知れません。 とはいえ、『魔王ダンテ』(1971年に『週刊ぼくらマガジン』誌上で連載開始)において永井氏が提示した「
話は変わって。(次の更新というのは翌日の更新ということで!) 「限界小説研究会BLOG」という日記にあがっていた「映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作が切り捨てたもの」というタイトルのエントリについて重箱つつき的なコメントを投稿させていただいていたのですが、反映されませんようですので別途、こちらで書いておくことにします。 該当記事のurl: http://ameblo.jp/genkaiken/entry-10763657500.html ここで『ニーベルンゲンの歌』について、もう少し考えてみよう。これは英雄ジークフリートが邪竜ファーヴニルを成敗する物語であるが、 ダウトでございます。叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の主人公は、確かに竜殺しの英雄として知られたジーフリト(ジークフリート)です。しかしながら、この竜殺しの経緯は作品の第二歌、ブルゴント王国にやってきた見知らぬ勇士(ジーフリト)に
「それは、何だかわかりますか?」 昨日の日記でこのように出題していたわけですが、今のところブログ、Twitterともに回答なし。ちょっとしょんぼりしつつ、お約束通り「僕なりの考え」を開示します。 そもそも、「ラブクラフトの〈クトゥルー神話〉ですね」という発言しかないのに、ここから何を読みとれるというのだろう……石森章太郎作品にクトゥルーネタが紛れ込んでいて、その頃に永井氏がアシスタントをやっていたとかそういうことか……? これは、メッセンジャーでやり取りしていた友人のコメントですが、実はこの短い発言こそが最重要の手がかりなのです。 即ち−−。 永井豪氏は、1979年夏の時点で"Cthulhu"を「クトゥルー」と発音、表記している。 今日、「クトゥルフ」というのはTRPG発祥のゲーム文化圏に特有の読みで、原作小説から入った人間は「クトゥルー」「ク・リトル・リトル」と読む人間が多いように感じて
今年は孤影再びの公開やボトムズのスパロボ参戦と最低野郎の私にとって胸が熱くなりますなぁ~(歓喜)前作sm13138918で踊らせてたスコタコが完成したので公開します。↓配布先はコチラ↓http://bowlroll.net/up/dl37708お借りした物は動画最後にまとめて紹介皆様からの多大な御宣伝感謝感激でございます。なんか申し訳ないっす。(1/26追記)コメ1793番でまさかの壁紙リクエストがあったので作ってみた。上記URLに放り込んでおります。(笑)(12/2/5追記)おかげ様で10万再生達成。皆様に感謝!今までうp主がつくったもん:mylist/17627650あれっ紹介文中に誤字が・・・「板」ってヒン・ヌー大尉の仕業か?うわ何をするやめqあwせdrftgyふじこlp;
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