留学のような、留学でないような 明治初期には、実質的に東京の官立高等教育機関での修学は「留学」であった。つまり、そのころの高等教育は欧米人教師によって外国語(英・仏・独語)でなされていたからである。 柴五郎が通った陸軍幼年学校ではフランス語で教育が行なわれていた。明治6年(1873)入学したその学校では、「教官はすべてフランス人にてプーセ教頭のもとに、モンセ、ヴァンサンヌ、ルシェ、グーピル、ルイ等あり。日本人は助手、通弁のみ。/国語、国史、修身、習字などいっさいなく、数学の九九までフランス語を用い、地理、歴史など教えるもフランス本国の地理、歴史なり。日本の地理、歴史など教えられたることきわめてまれなりしが、フランスの山河、都市村落、河川、気候など暗記し、問わるればただちに回答す」。「食事もまた洋食にて、スープ、パン、肉類なり。ただ土曜日の昼食のみ、ライスカレーの一皿を付す」(石光b:10f