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ブックマーク / freezing.blog62.fc2.com (99)

  • 坂のある非風景 不在では不十分である

    仮に、書かないことが書くこと以上に意味をもつ場合があっても、書かれない文字が語ることを聞くのはむずかしい。読みたいことを読んでしまうからだ。「読んではならない、見るのだ」。言葉は文字となって再生するだろう。輝くのではない、燃えるのだ。 どこを見渡しても奴隷しかいないが、そのとき私は彼ら奴隷たちの奴隷である。ただ、彼らが流されてゆく流れよりも早く流れていけるだろうか、課題はそこにある。海に出ない流れは全部、橋を架けることができない越えられない壁である。 『吉隆明の言葉と「望みなきとき」のわたしたち』という書物で瀬尾育生が紹介して知ったが、『アヴェロンの野生児』というに、狼に育てられた少年に言語を習得させようとして手をつくす話がある。あるとき、少年がひどくのどが渇いていてコップに入った水を与える。少年はその水を飲み干すと「ウォーター」と言ったが、結局、そのひとこといがい言葉を話すことはなか

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    sphynx 2012/10/14
  • 坂のある非風景 廊下を道だと思って歩いている

    廊下を道だと思って歩いている。 近親相姦はだれもが近親相姦への欲望を持っているから禁止されたのではないというよく耳にする言葉を唐突に思い出す。禁止の対象は欲望の対象とはまるで無関係なのである。 これは謝罪というのはそもそも罪とは無関係だという話でもある。 私たちは欲望から行った悪をなにか別のものにすり替えることによって償うしかない。 「すべては欲望を罠にかける。それは倒錯者の頭の中ではじまる。」 こういう話がどうでもいい話かどうか私にはわからないが、どうでもいい話として読んでくれることを私はつねに望んでいるだろう。 ついでにクイズ番組は教育番組ではないという話もしたかったが。 椅子を買ったが座っていない。 何のための椅子ですかという抗議を受けている。 ここ数ヶ月郵便物の封を切っていない。 私はいま郵便物が届けられるそれ以上の至福を求めてはいない。 何をべてもすぐに吐いていしまうと暮らし

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    sphynx 2012/08/13
  • 坂のある非風景 追悼 吉本隆明

    なにか書こうと思って、冬眠から春眠への境界を眠りのなかで越えながら、そこに吉隆明の訃報がとどき、これで戦後が終わったという、戦後がなにか考えもしない暢気な連中の大合唱を聞いたり聞かなかったりしていた。戦後は始まったばかりだし、どんな時代よりも長い戦後の終りへと道は延びている。 『共同幻想論』が私の書物だったことはないが、そこには、小林秀雄やマルクス・エンゲルスへの深い理解、柳田國男への敬愛も満々と湛えられていて、批判ではなく愛が一冊の書物に結ばれるという公理に私ははげしくうたれたのである。 しかし私の書物だったことはない、ということを告げてきたのは、書が国家論の見かけをとった観念論批判であり、じつは恋愛論だったということを認めたくないからだった。けっして愛が世界を救うと語らないことによって語られる愛を、私もまた見ないためだった。 まるで、ともに生きた人に愛していなかったと告げるように、

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    sphynx 2012/03/28
  • 坂のある非風景 待つことは時計になることだ

    時計になって穿たれた日々に雨が舞っている。 風は道に落ちた紙切れを「拾おうとして要らないものだと気づいて捨てる」をくりかえしている。風には無数の手があるわけではないので、拾う手は捨てる手だし、さしだす手は振り払う手なのだ。風の手に押されたり引かれたりして私たちは自由に、理由なく、埃のように移動する。 いいえ、自由とは理由がないことではありません、無数の理由があることです。 先日から今日にかけて博多駅ビルはクリスマス以来のイルミネーションに飾られていたがその理由はついにわからなかった。わからない理由というのがきっと「無数の理由」なのである。街は変わることをやめない。「つまり、ひとは移動することをやめないのだ。」(『アンチ・オイディプス』) 埃のように移動して偶然わたしの近くに至ったひとを大切にしなければならない。埃のように移動して去ってしまった後も、そのひとの何かを留めようとしなければならな

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    sphynx 2012/02/13
  • 坂のある非風景 詩が終わる場所で始まる日

    その日も帰り道を急いでいた。が、その日がいつだったか、そこがどこからの帰り道だったかわからない。きっとそれと同じ「わからない」を告げて切る電話の呼び出し音が鳴っている。 その手紙は、主語が省略されているとき私を語り、私は、と書き出されたときはあなたが主語だったが、あなたにだけは届くかもしれないとずっと思っていた。そのときのあなたはいったい誰だったのか。あなたの数パーセントはいまでもそのときのあなただろうか。 坂道はくだるためにあります、四角い青空はその日も雲で覆われていました。石が転がるというのは錯覚です。虫が鳴いているのは錯覚です。 解放せよ、という声で、男は、鏡に映し出された左手にすぎないのに、握りしめていた失った右手を思い切って開き、痛みを解放する。これは何の話かわからないだろうが、わからないままでいい。 思い出されるためにそれは過去でなければならず (苦しがって咲く花も (きっと誰

  • 坂のある非風景 年の瀬

    一瞬眠りから覚めて目を開けたがすぐに眠りに戻っていった、そういう一日だった。私はてんぷら定べて、やがて具合が悪くなって自分が運転する車に夢のようにゆられて家に帰り着いた。それから、一瞬起きているが浅い眠りを寝つづけている。 冬の空を見たのは初めてだった。 何もしない間に衰弱する一年であった。降るのか降らないのか、何をためらっているのかわからない降雨のように、知らない間に黒ずむ路面にして街灯を反射している。来年はこの衰弱に集中できるだろうか。落下してゆく軌跡を太いペンで結ぶことができるだろうか。 たまたま観た医療ドラマは愛に見放されて助かる患者と愛に看取られながら助からない患者の話だったが、これも人知の栄光を超えた〈神の前の平等〉をあからさまに表現するだけだった。そこではたえず、みんな不平等をこうむっているという平等によって不平等は止揚されている。 それともこのドラマは、衰弱の中に詩は

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    sphynx 2011/12/26
  • 坂のある非風景 寒い日が呼んでいる

    秋にはもれなく11月がついてくる。バスのように遅れながら進むものを多くのものが追い越していった。すれ違ったり追い越されたりするために秋はある。 詩集が数冊贈られてきて、それも秋の属性というほかない。私はもう長いことよい詩を読みたいと思っていないことに気づく。毎日夜がくる、そのように詩と出会っていければいいと思っている。彼女が来れば恋がついてくる、夜が来れば闇がついてくる、秋が来れば11月がついてくるし詩集がついてくる。 先日、市内をクルマではしっているとき、前のが犬を散歩させている姿をふと見かけたが、まるで何も気づかなかったかのようにクルマはその横を走り抜けた。すれ違ったり追い越されたりするために秋はある。 3日もたってなぜクルマは停まらなかったのかと自分に問われ、誰も呼び止めなかったからだと私は答えている。もし私が私の前のだったら、ふと見かけた私を呼び止めはしないだろう。寒い日が呼ん

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    sphynx 2011/11/17
  • 坂のある非風景 ザ・インタビューズ(3)

    Author: M ペンを折ることさえ、ここではもう「別の手段による詩の継続」を意味しているにすぎないという宿命に、それからも耐え続けた。 freezingm▽gmail.com ■死後、わたしたちはどこへ行くと思いますか? 古代インドの思想であった輪廻転生をいかにして破壊するか、 それが仏教の中心思想だったわけですが、そこで「死後」が生まれました。 死後は、死を生に繰り込むことで死を乗り越えようとする考え方ですし、また、 生きていることは死ぬことでは完結できないという「生きる」ことの欠落を物語っているように感じられます。 生物的な死がくる前に象徴的な死がやってくると、ひとは廃人となって生きつづけます。象徴的な死よりも先に肉体の死があったとき、ひとは亡霊となって行き別れたひとの心の中で生きつづけます。これが重なることのないふたつの死です。すべての死は遅すぎるか早すぎます。 そしてひとは、ひ

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    sphynx 2011/11/01
  • 坂のある非風景 ザ・インタビューズ(2)

    Author: M ペンを折ることさえ、ここではもう「別の手段による詩の継続」を意味しているにすぎないという宿命に、それからも耐え続けた。 freezingm▽gmail.com ■好きな花を教えて下さい。 花といえば展望台に立って、彼女がゆっくりとこの場所をめざして登ってくるのを見ていましたが、ふと道の曲がるところで屈むと野花を手に取った、それがシロツメクサでした。 けっきょく展望台は工事中で、私たちはその坂をふたりで下ったのですが、そのシーンはまったく覚えていません。 シロツメクサを摘んだ、それだけなのです。私が先に来ていて、登ってゆく姿を見られていることをもちろん彼女は知っていたのです。もちろんそのシロツメクサは、私にその姿を見せるために彼女に摘まれることを知っていたのです。 シロツメクサがいつ咲くのか知ってしまうと、私はそのデートがあった季節を知ってしまうでしょう。季節などがあった

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    sphynx 2011/10/11
  • 坂のある非風景 ザ・インタビューズ(1)

    隆明を介して出会う吉隆明 JAP on the blog(09/06) その亡霊、その模倣 miya blog(08/22) 中上健次は語る 南無の日記(08/11) ブランショを月明かりにして歩く 愛と苦悩の日記(01/21) 作品は過大評価を求めつづける 青藍山研鑽通信(12/01) 十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない M’s Library(11/09) 十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない 僕等は人生における幾つかの事柄において祈ることしかできない(11/07) 停滞すべき現在さえ 斜向かいの巣箱(10/22) 東京旅行記 #4 azul sangriento(09/23) 東京旅行記 #1 南無の日記(09/21)

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    sphynx 2011/10/04
  • 坂のある非風景 言葉はどこから音楽なのか

    なぜ山に登るか、そこに山があるからという言い方に倣えば、なぜ教会に行かないかというと、そこに教会がないからである。5月、友人の演奏会がそこ、教会であったことを私は今もって信じられないわけだが、あの狭い、垂直の背凭れをもった長椅子は人々をひとしく小さくしてしまう、そこは、いったいどこだったのだろう。 書くことはだれでも簡単にできる。しかしそれを読むことは崇高な作業で、書く行為を簡単には許さないそういう抑制として始まる。ときに読むことは書くことを追い越してしまう。書かないときは何も出てこないというより、そんなものをまず自分自身が読みたくないときかもしれない。 そうして書くことと読むことは対立していてそこには時間的なへだたりもある。音楽や絵にそういうへだたりがあるのかどうかわからないが、そんなへだたりはないとここでは言っておく。色や音は言葉とは正反対のもので、言葉には意味があるが、色や形、音に意

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    sphynx 2011/08/26
  • 坂のある非風景 言葉は信念が残す

    打ち明けると、愛すべき作家が別の愛すべき作家について語るのを聞きたい。トニオ・クレーゲルのように、私が愛する二人が私を忘れて愛し合うことを絶望とともに望んでいた。 しかし白状すると、フィリップ・ソレルスの『セリーヌ』はとても読み進むことができない。訳がソレルスにもセリーヌにも届いていない。ずっと同じ単調な音楽が流れていて、それが文体のことだと思っているわけだが、その音楽は騒がしいファストフード店で流れているBGMにしか聞こえない。つまりほとんど聞こえなかった。 セリーヌのエクリチュールを流れる小さな音楽は彼のグロテスクな言葉の背後に流れる主旋律だし、ソレルスには音楽しかないはずだった。それなのにこの翻訳には意味だけを伝えようとして言葉が並べられた。意味では語ることができないほど大きな愛をソレルスはセリーヌに、意味の手前で、絶えず捧げているのではないだろうか。 だから意味だけを伝える言葉はも

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    sphynx 2011/08/13
  • 坂のある非風景 昼は明るい夜にすぎない

    表題の元ネタは「ぼくは夜明けなんて信じてないの。あるのは明るい夜だけ。」という@_tokeru_氏のツイートだが、たしかに春はあたたかい冬だし秋は涼しい冬にすぎない。では夏は暑苦しい冬だと言えるだろうかとすでに半日くらい考えているところだ。 希望にまみれた昼を拒否して〈その夜〉、どこからも去ってしまったひとを、もうここにしかいないと胸を指さした人と語り合った。〈その夜〉、愛はただ欲望によってたしかめられようとしていたし、〈その夜〉、足りない言葉がさらに足りない思いを作り出していた。 悪趣味は犯罪に通じると言ったのはスタンダールだったが、それを踏まえて戦争は悪趣味すぎると言ったのはセリーヌである。犯罪に通じる悪趣味はまだ犯罪ではない。それはいったいいつ犯罪となるのか。いつか犯罪になるようなものだろうか。原発事故は悪趣味である。 そのセリーヌは医者でもありこういうことを言っている。「現場では、

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    sphynx 2011/08/08
  • 坂のある非風景 開かれた扉を通ってゆくことはできない

    帰ったら風呂が洗われていた、といったことに対する@btwndayandnight氏の驚きはたんにもう一人暮らしではないということを知った、それだけを意味しない。これはちょうど@hydlage氏が家に帰り着いたときに門扉に自分の表札をみて自分が家を持っていることに驚いたというのと同じで、ひとつの世界が開示された瞬間をあらわす。ときとしてひとは自分が選択し背負ってしまった何かが〈モノ〉として出現する場面に遭遇するのである。 ほんらいは気づかずに通過してしまう些細で静かな出来事があるとき突如違和感をともなって露出する。そういう場面をこそ「劇的空間」と呼びたいわけだ。そこかしこに気づかないことを不可能にする日常の破れ目があるのに私たちは気づかない。あるいは気づかないふりをしている。じつは気づかないふりをしながら気づいてなどいないのだった。志賀直哉の天才はそこにある。彼はただ破れ目を日常として覗き込

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    sphynx 2011/08/02
  • 坂のある非風景 別れは再会の約束である

    ねじれた道があったとしても。そんな道も過去完了形で振りかえるとまっすぐな道になるわけで、そこには完了形をいかにして使うかという問題が顔をのぞかせる。完了形とは言葉に過去を生成する装置である。それは私たちに過去を生成する。言うまでもないが過去によって「人は私になる」(荒木時彦『sketches』)。 というわけで過去完了形を使わないということは私を拒否することである。いつ私は人に帰ってゆくのか。私というフィクションを失うときに人というフィクションも失ってしまうことを避けるにはどういたらいいのか。フィクションだと知っているだけでいいように思える。知っているか知らないかで世界が別れてゆく、というより、知るだけで世界は同じひとつの世界になる、そういう瞬間を経験するかもしれない。 別々の道をやってきた知人たちがやがて別々の道へと別れてゆく。その束の間の出会いを手にすることができるのは別れてゆくものだ

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    sphynx 2011/08/02
  • 坂のある非風景 「間違いのような春」

    そこには希望だけがあった。ただの希望ではない。ガムを買ったくじ引きで当たったふたつ目のガムのような希望だった。欲していたものはいらないものだったのに、それを告げることができないで躊躇している。 垂直に、次々に落下する雷をみながら、まるでライブ会場にいるみたいと言ったある人の言葉は、ちょうどサルトルの『一指導者の幼年時代』の主人公が森をみて、これはぜんぶ材木でできているんだねと言ったセリフを思い出させた。 模倣がオリジナルである時代は希望しかないが、その希望はいらない希望でできていた。 私はまだいけない夢を見ているのだろうか 凍った蓮華蜜を熱いミルクで溶かす すると間違いのような春がやってくるのだが 夢の高度を保てぬ者には苦しむことの自由さえ訪れまい けっしてまっすぐには進まない言葉を使って事物に向かってまっすぐにすすむこと、それだけが試みにあたいする。レールのように、曲がっているのはまっす

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    sphynx 2011/07/12
  • 坂のある非風景 時間のゆくえ

    「ほんとうのエクリチュールとは受精である」というソレルスの言葉は、セリーヌの手紙にあった「私は父なる精子である」にたいして投げ返されたものだったが、受精したものがそこで遺伝子を引き継ぐのねと、さらに投げ返される言葉を受け取った。言葉はそういう応酬のなかにしかないが、応酬というものさえ、受精の一種かもしれない。 そんなふうに、拒むことによって受け入れてしまい、引き継いでゆくエクリチュールについて思った。ふと思っただけで、長い間思ったわけではないが。 ほとんどの思いは、トランプのシャッフルと同じで三度以上繰り返しても意味はない。一度思って認識は逆転する。二度目で元に戻る。そして元に戻ったとは気づかない。それでシャッフルは終わる。 時間を失っている。私から奪われた私の時間はいったいどこに行ったのか。これも三度以上は問わないようにしよう。 わたしのテクストは小さい声で読んだとき、それを聞いている人

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    sphynx 2011/07/11
  • 坂のある非風景 愛のエピソード

    梶井基次郎のウィキペディアに以下のエピソードが紹介されている。 汽車内で同志社女専の女学生に一目惚れし、ブラウニングやキーツの詩集を破いて女学生の膝に叩き付け、後日『読んでくれましたか』と問うと『知りませんっ』と拒絶をされた事がある。 『知りませんっ』というセリフの最後についている「っ」がおおいに気になる。ブラウニングやキーツが似合うと見立てられた少女の自尊心からやってくるかたくなな憤りが、こんな「っ」で表現されていて、その口調をすぐそばで直接聞いていただれかが書き残したものだと思われた。そしてもちろんこれはウソではない。たんなる誇張である。 すぐそばにいたのが大宅壮一だったかどうか知らない。いっしょに汽車で通ったとされる大宅壮一のウィキペディアにはさらりと「大宅は梶井と仲良くなり文学や恋愛を語り合った」とだけ書かれているが、文学や恋愛を語り合う仲良しといったおそるべき平凡さにおどろいてみ

  • 坂のある非風景 手が先に動く

    起床しない朝は道路が濡れている。小鳥が舞い降りようかためらっているし風は吹こうかどうかためらっている。 昨日とまった時計が指しているのはもう昨日の時間ではない。別れも出会いのようにその境界をこえて遠い過去と未来にまで広がっている。とまった時計は危険である。明日も出会い明日も別れる。何年も経って過ぎてしまった雨に濡れて、道標をうしなった坂をこれからも永久に下りつづける。 同僚の、なんてことない胃カメラの話を聞きながら昼時間をすごした。喉と胃に麻酔がかけられて、やっと喉の麻酔が切れたと思ってべたらまだ胃が死んでいたらしい。切れる麻酔は危険である。胃カメラを飲む経験はいろいろな意味で生きることをあきらめる経験に近いと彼は言っていた。 講談社文芸文庫『柄谷行人中上健次全対話』を持ち歩いている理由に深い理由はなく、神経痛のため重たい単行を持つと歩けないからだった。対話はふたりのあいだに流れる沈黙

  • 坂のある非風景 日曜日以外なにもない

    ファミレス。目の前では、やはりひとりで来ていた初老の紳士がべ終わった後不機嫌そうに新聞を読んでいたが、社会面ではなくスポーツ欄だった。ファンのチームの勝ち負けは飯のうまさを左右する。常勝チームを応援する場合は前に新聞を開く。 連敗するチームは常勝チームが与えてくれるのとは別の深い快楽をもたらす。それは不満であって不快感ではない。不満を吐き出すためには、無害な不満を貯め込むことができなければならない。やすやすと耐えられる不満の対象を持つこと。不満の対象をけっして失ってはならないこと。 イオン。かわいい母親がちいさな娘を連れてサーティワンでアイスクリームを注文していた。2個と言いながら指を二立てたが、それがピースサインにしか見えなかった。彼女は大きなハート型のイヤリングをしていたが、彼女の挙動の大きさや強さはそのイヤリングの大きさからやってきていた。2個と告げたいだけなのにピースと言って