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ブックマーク / indai.blog.ocn.ne.jp (106)

  • 恐山あれこれ日記: 独占インタビュー

    独占インタビュー むつ市の中学1年生・女子4人組が、「調べ学習(彼女らがそう言ってました)」のために、恐山にやってきました。なんでも、「責任者のお坊さん」にインタビューして、レポートを作るのだそうです。 「どうぞよろしくお願いします」(4人同時にペコリ) 「はい、よろしく」(院代なんとなく緊張) 「じゃあ、私から、最初にい・・・、恐山はどうして霊場なんですか?」 (おおっ!いきなり根源的な問題) 「うーん、あの歴史的な成り立ちとかはを見れば出てくるから、図書館ででも調べてよ。それとは別に、霊場が霊場である理由という話をするなら、結局、気持ちの問題だな」 「ここへ来る人のですか?」 「そう。君たちだって、大切な人が死んでしまったら、ただ悲しいだけではすまなくて、いろんなことを思うだろう。それだけじゃなく、いつか自分が死ぬということに気が付けば、それが怖かったり考えたりすることもあるでしょ。

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    sphynx 2014/10/11
  • 恐山あれこれ日記: 「無為」の作為

    「無為」の作為 お盆中に檀家さんの一人と四方山話をしていたら、彼がこんなことを言いました。 「方丈さんね、何か新しいことを始めるか、あるいは今までしてきたことをさらに続けるか、というようなことが議論になったとき、必ず『今それをする意味があるのか』と言い出す人がいるでしょ」 「いるねえ」 「でね、この『意味あるのか』で話が始まるとダメなんだよね。みんなが色々なことを言うようになって、なかなかまとまらない。でね、私はそういうとき、『それをしなかったら、どうなる?』という方に話を持っていくの。しなくても別にかまわないなら、それでいいんだし。不都合が生じるなら、それが行う意味だし。この方がまとまりやすい」 「なるほどねえ」 私は感心しました。確かに「意味あり」の前提で議論を始めると、要はそれぞれの考えようですから、意味のインフレーションになりやすいでしょう。 しかし、「しなくても構わない」を前提に

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    sphynx 2014/08/20
  • 恐山あれこれ日記: 女王の、「ありのまま」の、絶望的孤独

    女王の、「ありのまま」の、絶望的孤独 何分にも流行に疎いので、「ありのままで~~」とか「アナ雪」とかいう声があちこちから頻繁に聞こえていた頃は雑音同然だったものが、記録的興行成績をあげ、今もそれを更新し続けているアニメーション映画の主題歌とタイトルであると、最近ようやく知りました。 さらについ先日、主題歌の全体を聞く機会があり、興味を持ってストーリーの粗筋を読んでみたら、これがまた、時々「自己啓発」系や「人生訓」系の書物に出てくる、「ありのままでよい」という類の安直な主張を考え直す上で、格好の材料だと思いました。 まず第一に重要なのは、「ありのままである」ことは欲望であって価値ではない、ということです。それは基的に、「ありのまま」であろうとする人ではない他者に承認されたり共有されたりすることではありません。つまり「ありのままであるべき」とは、原理的に言えないのです。 なぜなら、もし他者

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    sphynx 2014/08/09
  • 恐山あれこれ日記: 「ユキばあちゃん」

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    sphynx 2014/08/09
  • 恐山あれこれ日記: 話の変え方

    話の変え方 「たとえば坐禅について、君は小難しい理屈を言うかと思うと、頭を冷やすためにするだの、リラックスの方法だのと、妙に簡単な話をする。方便と言えばそうかもしれないが、悪く言えば二枚舌じゃないのか?」 「対機説法という言葉があるのを知っているか?」 「ああ。お坊さんが相手に合わせて、つまり相手の立場や理解力に合わせて教えを説くことだろう」 「ぼくはね、相手に合わせて説くんじゃないの。相手の問題に合わせて言うの」 「どう違うんだ」 「『悟り』とか、『身心脱落』とか言い出す相手なら、小難しい理屈で話せばいいじゃない。だけど『最近煮詰まってて、頭を空っぽにしたい』とか、『職場のストレスがひどくて、何とかしたい』とか言う人に、『悟り』もへったくれもないでしょ。坐禅がそれなりに役に立ちそうだと思ったら、問題の範囲内で紹介すればいいだけさ」 「なんだか不誠実だなあ」 「そう思うのは、君が仏教の『真

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    sphynx 2014/06/30
  • 恐山あれこれ日記: 「仏教は科学」ではない

    「仏教は科学」ではない あるものがそのようなものであることの根拠、これを「実体」と言うなら、仏教はそれを認めません。その「実体」を「我(アートマン)」と呼ぶとすれば、すべての存在は「非我」だと言うことは、人間はいかにしても「我」を認識できないという意味になり、認識できないならそれを論じることは全く無意味でしょうから、もはやそれは無いも同然、すなわち「無我」ということになるでしょう。 この「非我」「無我」「空」という考え方は、仏教のごく初期、ゴータマ・ブッダの言葉にも表現されている教説ですが、この教説が陥りやすく、かつ最もわかりやすい解釈は、要素分割主義的なアイデアです。 すなわち、「車」そのもに「実体」はなく、部品の寄せ集めで「車」になっているように、この世のあらゆる存在は、五蘊(色・受・想・行・識)の寄せ集めに過ぎない、と考えるのです。この考え方は、ゴータマ・ブッダの弟子とされる者もすで

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    sphynx 2014/06/22
  • 恐山あれこれ日記: やはり言っておこう。

    やはり言っておこう。 この先を思うと、やはり今の時点で一度言っておこうと思います。 憲法といえども所詮法律ですから、状況に応じて適宜変えていくことは勿論否定しませんが、現政権のやり口は、ダメでしょう。 一番ダメなのは、政治に妙な情念を持ち込むことです。「美しい国」とか「日をとりもどす」とか「戦後レジュームからの脱却」だとか、漠然とした気分を言うばかりで、何をどうしたいのか、何故それが必要なのか、その結果何が起きるのか、具体的なことがまるでわからない言い草ばかりです。 けだし、政治の要諦は、集団内の暴力と経済を管理しながら、メンバー(人や国家など)をめぐる錯綜する利害関係を調整して折り合いをつけることです。 このとき必要なのは、冷静で緻密な思考なのであって、情念など無用どころか有害です。 ところが、憲法改正手続きの変更の企てから始まり、今般の憲法解釈の変更計画に至る、政権の一連のやり口を見

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    sphynx 2014/06/01
  • 恐山あれこれ日記: 「超越」論的行為論

    「超越」論的行為論 仏教を語るときに最大の困難は、一番大事なことがまるでわからないことです。 まず、ゴータマ・ブッダがまさに「悟った」時、彼に何が起こっていたのか、全然わからない。それについて、語っていない。彼が話しているのは、「悟り」の前と後のことだけです。 さらに、「ニルヴァーナ」についても、それが何であるのか、わからない。たとえば、「生存が尽きて二度と生まれ変わらない」と言われても、それがどういう「状態」なのか、まったく知りようがありません。 しかし、仏教者である以上は、この二つが「わからない」ではすみません。すると、どうするのか。「わかったかのように」語るしかないでしょう。 「オレはわかる」と言い出す者が出てきても、彼が「わかったこと」がブッダの「悟り」や「ニルヴァーナ」と「同じ」であることは原理的に証明できませんから、「わかったふり」をしていることと区別できません。 結果、「悟り

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    sphynx 2014/06/01
  • 恐山あれこれ日記: またアノ話

    またアノ話 「最近、某放送局の番組で『超常現象』を科学で解明する、みたいのをやっていたが、見たかい?」 「要するに『心霊』現象の類を科学で扱う、という話だろ。見ない。同じことの繰り返しだから退屈だもの」 「どういうことさ」 「要するにこのテの話は、意識なり自意識なりを科学で解明できるのか、ということと同じだろ」 「まあ、そうだよな」 「その答えは決まっている。まず、意識を解明すると言っている科学者は、脳の話か、あるいは脳を構成する分子や原子、あるいは最近だと素粒子の話をしているに過ぎない。意識の話ではないんだ。科学が言い得るのは、脳の物理的・生理的なシステムと意識現象に一定の並行関係がある、ということまでだ。これを『解明』というなら、その『解明』は今後大いに進むだろう。意識を脳の物理的過程を通じて操作する方法の開発も進むだろう」 「しかし、それは君に言わせれば、所詮、脳と素粒子の解明話だと

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    sphynx 2014/03/31
  • 恐山あれこれ日記: 発熱最中

    発熱最中 ずいぶん久しぶりに風邪をひいて寝込んでしまいました(寝込むのは20年ぶりくらいか?)。インフルエンザでもないのに情けない話です。 こうなると手も足もです、ただ寝ているだけです。すると、子どもの頃からの習慣で、発熱した頭のまま、様々な妄想・追想が出てきます(私は熱に強いです。なんの自慢にもなりませんが)。その中で、ずいぶん昔のことをひとつ思い出しました。 中学生で京都に修学旅行に行った時のことです。私は初めて、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像という、有名な仏像を見ました(確か、国宝彫刻第一号だったでしょうか)。 私はこの時、像を見ているうちに、ほかの生徒が全部移動してしまい、探しに来た教師にえらく怒られてしまいました。 「お前はこういうのに感動するのか」 教師は聊かあきれてそう言いましたが、実は私にはそのとき何を感じていたのか、まったく記憶がありません。結構長い時間見ていたのでしょうが、

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    sphynx 2014/03/20
  • 恐山あれこれ日記: 「信じる」困難

    「信じる」困難 「信じる」とは、いかにして可能になる行為なのでしょう。 もし、ある存在や考えをそのまま受容すると言うなら、それは「了解」とか「理解」であって、「信じる」ことではないでしょう。 むろん、それは「あるものが存在してほしい」とか「ある考えが正しくあってほしい」と「願う」ことでもありません。「信じる」のはあくまで、「存在する」ことであり「正しい」ことなのです。 すると問題なのは、「信じる」ことは、「疑う」ことがない限り、不可能だということでです。そもそも、「存在しないかもしれない」「間違っているかもしれない」と思う余地がなければ、「信じる」ことは成り立ちません。疑いがまったくないなら、「理解」「承認」するだけでしょう。ならば、「信じる」とは即、「疑いの排除」として以外に現実化しません。 だとすると、われわれは決して純粋に「信じる」ことはできないことになります。つまり、「信じている」

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    sphynx 2014/01/02
  • 恐山あれこれ日記: 師、走る!

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    sphynx 2014/01/02
  • 恐山あれこれ日記: 君への若干の意見

    君への若干の意見 そう。君のいうことは正しい。君が存在してしまったことについて、君には責任がない。「生まれたくて生まれてわけではない」し、「生んでくれと頼んだわけでもない」ことも、そのとおりだ。 以前、「人は親を選んで生まれてくる」という馬鹿げた説教を聞いたことがあるが、もしそうなら、大概の人間はもっとマシな親を選んで生まれてくるだろうし(ちなみに、「選ぶ」とは選んだ自覚がある場合にしか意味のない言葉である)、だいたい同じ説教を虐待されて育った子に面と向かって言えるのか? それは「前世の因果だ」、「自業自得」だとでも言うつもりか?(ちなみに、「因果」の言説が有効なのは、当の「因果」関係を承認する者においてのみである) 君の存在の開始に、まず責任を負うべきは「親」だ。というよりも、ある存在の開始に、一方的に責任があることを承認し自覚する人間を、その存在に対して「親」と言うのである。 君は苦し

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    sphynx 2013/12/03
  • 恐山あれこれ日記: 坐禅問答

    坐禅問答 「あなたは、以前の記事で坐禅について述べていましたね」 「はい」 「では、道元禅師の言う『只管打坐』とは、あなたの解釈ではどういう意味になりますか?」 「ただ坐る、ということでしょう。坐禅とは別の特定の目的のため、たとえば『見性』のための手段として坐禅があるのではなく、坐禅すること自体に目的や意味がある、という程度のことでしょう。めずらしい解釈ではありませんが」 「だとすると、おかしくありませんか? 『ただ坐る』という以上、それとは別であろうが、それ自体であろうが、およそいかなる目的も意味も持たずに坐らなければいけないはずでしょう?」 「あのですねぇ、明瞭な意識を持った人間が選択的に行うことに、無意味無目的なことなどありえません。というよりも、無意味無目的のまま人間は行為を選択できません」 「そりゃそうでしょうね」 「『ただ坐る』といいますが、公園のベンチにもたれてボンヤリしてい

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    sphynx 2013/10/20
  • 恐山あれこれ日記: 「物語」の欲望

    「物語」の欲望 私がものを考えるとき、不可欠の前提としていることが三つあります。 一つは、意識と言語の起源については、原理的に知りえない、ということ。 第二に、死についてのすべての言説は、死とは関係ない、ということ。 第三に、にもかかわらず、起源と死を語る欲望を否定しないこと。 一について。 意識が意識の起源を意識し、言語が言語の起源を語ることは、原理的にできません。意識の起源を意識化でき、言語の起源を言語化できるとなれば、その起源はすでに意識のうち、言語の中にあるのであって、それは起源などと言うまでもなく、要するに意識であり言語であるに過ぎません。  およそあらゆる事象の起源はすでにその事象に含まれているわけだから、事象の起源を問うとは、起源の起源を問うことになり、無限遡及かトートロジーになるしかないでしょう。 逆に、もし事象の起源が事象の外にあるなら、それはもう「事象の」起源ではありま

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    sphynx 2013/07/25
  • 恐山あれこれ日記: 根拠としての「否定」

    根拠としての「否定」 たいていの動物は黙って生まれてきます。少なくとも悲鳴はあげないでしょう。 ところが人間は生まれ出た直後から、泣き叫んでいます。これを人間の「悲しみ」の原初的な発現形態だとすると、「悲しみ」は喪失や欠如、不足から生じる感情でしょうから、人間という存在の根源には、喪失なり欠如があるはずです。 とすると、「私である」ということ、あるいは自意識という現象は、それ自体が喪失・欠如の「残余」としての意識態ということになります。言い換えれば、「私」とは「残余」の存在なのです。 問題なのは、この「残余」が、何の「残余」なのかわからない、ということです。何を喪失し欠如した結果の「残余」なのか、「残余」自体には原理的にわかりません。最初から「残余」でしかないものは、そもそも「残余」を自覚できません。 にもかかわらず、「残余」であるということは、まさに喪失した何かに対して存在することなので

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    sphynx 2012/12/08
  • 恐山あれこれ日記: 極楽・松竹梅

    極楽・松竹梅 いつもは電車で移動する住職が、この日は諸般の都合で飛行機。空港の搭乗口で文庫を読んでいると、横から突然、 「あ、ボンさん、ボンさん、あんたさん・・・」 びっくりして顔をあげると、ジャムおじさんみたいな人が、 「あんたさん、この前、テレビに出てた人でっしゃろ!」(筆者注:以下の関西弁は、住職にはそんなふうに聞こえた、ということです) 「はあ・・・」 「いや、アレ、なかなかエエこと言ってましたがな!」 「はあ、どうも、キョウシュクです」 「で、あんたさん、コレ・・・・・」 このあとジャムおじさんは、すごい早口で、最近自分の父親の葬式をしたこと、菩提寺の和尚や付き合いのあるお坊さんたちの評判、自分の健康状態、老後問題などを、元気一杯しゃべりまくりました。 「・・・・つうわけで、まあ、アレ、あんたさん、ワテもそろそろ、あんたさんたちの厄介にならなあかん年頃になってきましたわな」 「

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    sphynx 2012/12/08
  • 恐山あれこれ日記: 「終わり」は始まったのか?

    「終わり」は始まったのか? 少子・高齢化がこのまま進行する場合、日仏教における「檀家制度」が遠からず崩壊するか、少なくともいちじるしく脆弱になるのは確実で、したがって、これを基盤とするいわゆる「伝統教団」が消滅同然となるか、大きく組織構造を組み替えない限り存在意義を失うであろうことは、最早明らかです(ひと言おことわりしますが、私は「檀家制度が無くなった方がよい」と考えているわけではありません)。 この事実は、「伝統教団」にとっては一大事ですが、仏教にとっては特に問題ではありません。その存亡などは、仏教2500年の歴史からみれば、些細なエピソードです。 しかし、以下の報告は、仏教はおろか宗教も超え、「人間」の存在そのものを根源から問い直し、見方によっては決定的な「危機」に陥れると思います。 昨年、南カルフォルニア大学のセオドア・バーガー教授が、脳における記憶を司る部位である海馬を模倣したI

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    sphynx 2012/11/09
  • 恐山あれこれ日記: 人間/非人間

    人間/非人間 ある出版社の企画で、今年引退を表明された陸上のハードル競技選手、為末大氏と対談しました。以下は、そのときの私の発言の一部です(要旨)。 昨今のスポーツ界には、いわゆるドーピング問題というのがありますが、これは結局のところ、何が問題なのでしょうか。どうして禁止されなければならないのでしょう。 一つは、健康上有害だ、という懸念だと思います。ですが、これは有害でない薬物が発明されれば解決する問題で、いずれ可能になるでしょう。 二つ目は、ズルい、フェアではない、ということです。しかし、これまた、フェアにすればすむ話です。つまり、薬物使用や人体改造何でもありの、たとえば、「水泳・男子100メートル・薬物使用自由形」とか、「柔道・女子・機械化率30パーセント級」など、条件をそろえた「フェア」な種目をつくればよいのです。 そもそも、スポーツ競技は、「速い」とか「強い」とかいうことそれ自体に

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    sphynx 2012/10/20
  • 恐山あれこれ日記: 坐禅・私流

    坐禅・私流 最近よく「あなたはどんなふうに坐禅しているんですか?」と訊かれます。坐禅や瞑想が、宗教的行法や一時的なスピリチュアルブームをこえ、もっとカジュアルな心身健康法のようなものに捉えられるようになってきたのかもしれません。 そのことの是非はともかくとして、以前にに書いたことではありますが、ここでもう一度、私が現在採用している坐禅法を紹介してみます。 坐禅する場合の具体的な足の組み方・手の組み方・姿勢づくり、こういったことは、まず第一に、道元禅師の『普勧坐禅儀』や『正法眼蔵』「坐禅儀」に従うのがベストです(ただ、組んだ手を左足の上に置くとありますが、必ずしもそれにこだわらず、下腹に手を引きつけ加減にしながら、ごく自然に肘が伸びて静止する位置にしておけばよいと思う)。これには解説もたくさんでていますから、ブログでは割愛します。 私が強調しておきたいのは、それらの書物の中で道元禅師が

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    sphynx 2012/10/10